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漢魏の制度を語る

1 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/02 00:30
両漢から三国時代あたりまでの官僚制度やらなにやら、諸々の制度を皆で語りましょう。

2 :世界@名無史さん:04/04/02 00:32
2ゲット。

こちらで建てましたか〜。
まぁ、自分もこっちの方が荒れなくて良いかもと・・


3 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/02 00:34
>>2
それも無いとは言いませんが、
前漢の制度を語りたいので。

詳しい方の降臨、そうでもない方の質問、その他色々お待ちしてます。

4 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/02 00:49
ネタを振ります。

漢書百官公卿表上の順番で。


丞相(相国)
一言でいうと宰相。「天子を丞けて万機を助理するを掌どる」
相国は丞相の上位互換。
漢で相国になったのは蕭何、曹参、呂産、董卓くらいか。
でも呂産や董卓の場合は少し問題あり。
漢では呂后時代や武帝の一時期に左右丞相を置いています。


5 :世界@名無史さん:04/04/02 01:21
後漢や三国だと左右丞相ないんですかね?

6 :世界@名無史さん:04/04/02 04:14
あぁ、移転ですか。
おめでと。

7 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/02 08:14
>>6
ありがとう。でも移転とはちょと違いますよ。
前のところは前のところで残ってますし。そことは別の趣旨と思っていただければ幸いです。

>>5
後漢は三公がほとんどですからね。
三国時代にはいずれにも丞相はいましたが、左右丞相はいなかったようですね。
前漢でも左右丞相の時代の方が珍しかったようですし。


前漢では蕭何が初代丞相となり、後に相国に。
曹参が次に相国となり、死後左右丞相として王陵と陳平が就任、という順番ですから、
最初は丞相は1名でした。
漢においては、左右丞相というのは建国の功臣などのパワーバランス等のために最高位を分置した、
臨時的な措置だったのでしょうか。

8 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/02 08:31
ちなみに、前漢でもう一回だけ左右丞相が復活します。
それは武帝後期、劉屈釐の丞相就任の時の事です。(漢書66劉屈釐伝)
詔によれば、丞相府を二つに分け、左丞相を劉屈釐とし、右丞相には「天下遠方之選」、
即ち天下より賢人が現れ見出されたらその者をあてる、というつもりだったとか。

これは多分、武帝の甥(兄である中山王勝の子)である宗室劉屈釐を丞相にする事への
抵抗、違和感を緩和する効果があったであろう事と、
(当時は宗室の要職就任は制限されていました)
周公旦と太公望といった、「優秀な親族(宗室)と在野から見出された賢人」という
古代におけるある種の理想的な組み合わせにしたかったのではないかと推測します。

9 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/02 22:39
劉屈釐の左丞相就任が宗室の賢者だった周公を意識してのものだとしたら、
大変皮肉な結果になりました。
かの有名な戻太子の乱を、長安内戦により破った官軍の司令官が彼だったからです。
周公旦も、実の兄弟を討伐しています。
こんなことまで劉屈釐は周公と同じになってしまったのです。


10 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/02 23:28
丞相の官庁は「丞相府」といい、ここに数多くの属官が働いています。
丞相の副官が長史(秩千石)2人です。
また、それとは別に丞相付きの行政監察官として司直(秩比二千石)がいます。
司直は各官庁(九卿、太守)を監察弾劾をしたようです。
この強力な監察官が丞相付きになっているのが、漢代宰相の特色かもしれません。

11 :6:04/04/03 02:33
>7
あっちで以前聞いたネタなんだけれど、
こんなの見つけました。

雲南・東南アジアに関する漢籍資料
ttp://www.lit.nagoya-u.ac.jp/~maruha/kanseki/index.html

12 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/03 13:22
>>11
ありがとう。こういうのってなかなか重宝しそうですね。
その方面の話では、徴姉妹とか孟獲とかについて
当地では現在どのように捉えられているかが気になるところですね。


丞相司直について。
司直は、漢書84テキ方進伝によれば、
もう一つの監察官である司隷校尉さえも弾劾しうる存在であり、
朝廷全体を監視するような職だったと考えられます。
(司隷校尉も司直や丞相自身を弾劾しています)
これが丞相直下にあり、皇帝直下の司隷校尉とほぼ同格になっているのです。
(テキ方進伝によると、当時、司隷校尉の「位」は司直の下であり、
 また会議の類の際には、司直と司隷校尉が中二千石の前に座って
 丞相・御史大夫を迎えたという)
行政監察という点では丞相司直の地位の高さと職の重さは相当なもので、
それはひいては当時の丞相の職務と権限の重大さと無関係ではないでしょう。

13 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/05 00:11
誰も見ていない予感。でもいいか。

丞相についてはまだまだ話はあるけど次。
太尉。
丞相と同じく「金印紫繻」なので丞相と同等か。
「掌武事」というものですが、実のところ実際に何をしていたのかよく分からない。
何故なら、置かれていた時期の方が圧倒的に少ないから。
百官表では武帝建元2年に省いたとあるけど、それまでも何度か消えては復活しています。
で、問題はここからで、百官表ではその後に武帝元狩4年に大司馬を置くという記事が続いています。
ということは、前漢前期の太尉=武帝が置いた大司馬?

14 :世界@名無史さん:04/04/05 01:04
見てますよ。

易性革命って見方で行くと
漢って東西ともに立ち枯れって感じがするのですが
そうなった要因になり後に改められた制度って
思いつきますか?

15 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/05 23:00
>>14
前漢においては丞相。
後漢においても丞相。
・・・かもしれません。

正確には、前漢末から新への時代は丞相制度から三公制度への移行期で、
新の官制もその中で産まれたものと理解できます。
王莽は当時の禅譲待望論の潮流に乗った面が大きいとも思うので、
必ずしも制度面は主要因ではないように思います。
(丞相が王莽簒奪の要因というのは半ば冗談です)

一方、後漢末は前漢末以来の三公制度が丞相制度に復古した時代でしたが、
丞相としての行政権と軍事権、録尚書事としての皇帝権への容喙、
全て備えた曹操によって王朝にとどめを刺されました。
これもまた時代の流れだったにしても、三公制度をやめた途端にこのザマ、とも言えないこともないのではないでしょうか。

16 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/05 23:23
このザマ、ったって丞相復活自体が曹操肝煎りでしょうけど。
ただ、何故「丞相」なんて200年ぶりの官を持ち出したのか。

(前漢の丞相を復活させてしまえば
「(太尉≒大将軍+司徒+司空)×2/3」
くらいの権限が集中するからです。    多分・・・
権限の固まりです。

17 :世界@名無史さん:04/04/06 02:38
権力の集中が主原因ですか・・・
三晋みたいなもんなんでしょうか。

前漢の初期には丞相制度も
うまくいっていたようなのですが、
結局だんだん汚れて行くんでしょうね。
話題を止めてまで回答いただき
どうもでした。

18 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/06 08:20
>>17
前漢末も、三公制度を無にする「宰衡」などの一連の王莽による権力集中がありました。
丞相だから悪いのではなく、権力の一極集中が問題なのでしょうけど、
丞相は制度どおりに運用されると十分すぎるほど権力が集中するのだと思います。

前漢初期などに丞相制度で上手くいっていたのは、
そもそもやるべき仕事が少なかった(=権限自体が少なかった)ことや、
皇帝による監視がそれなりに機能していたから、ということだと思います。

19 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/07 08:26
太尉と大司馬。

漢書百官表で太尉の条に大司馬も載っていると書きました。
しかしこの時の大司馬自体には官属はなく、将軍に冠する一種の加官、称号の類だったようです。
実際のところは、驃騎将軍霍去病を大将軍衛青と同等にするために、両者に大司馬の号を与えた、というのが始まりです。
(漢書霍去病伝)
なので、単なる「大司馬」ではなく、「大司馬(大、驃騎などの)将軍」と、
将軍位と一緒になって初めて意味を持つ、おそらくは将軍筆頭、総司令官、とでも言う意味合いの号と思われます。
それまでの太尉が武事を統轄する職だったと思われますので、大司馬将軍も同様の職分を持っていたと言えるでしょう。

しかし、太尉はこの大司馬将軍に全て吸収されて廃止されたとは考えられていなかったようです。
何故なら、漢書循吏伝、黄霸伝によれば、丞相黄霸が宣帝に外戚の史高を太尉にしたらどうですか、と進言しているのです。
それに対し宣帝は、「太尉の官をやめて丞相に兼任させているのは、武をやめて(偃武)文を興すためである」といい、将帥の人事は俺の仕事だから口を挟むな、と叱責します。
(但しこの史高は後に大司馬車騎将軍になります)
なんと、太尉の職は丞相が兼任しているというのです。
しかしその一方で将帥としてはまた別に大司馬将軍を置いているのです。

20 :世界@名無史さん:04/04/08 00:21
武帝さえ居なければ
もっとすっきりとした
体系だったんでしょうなぁ。

21 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/09 00:23
もしかして見てる人って俺含めて2,3人?まあいいか。

>>20
それはそうなんでしょうけど、
理由はともあれ業務量の増大に伴って色々新設や改組せざるをえなかった、
という面が大きいと思います。
武帝がやったというよりは時代がそうさせた、という感じでしょうか。


太尉と大司馬将軍。
この両者についてですが、太尉は丞相が兼任だとすると、
一方で太尉と等号で結ばれる事もある大司馬との関係はどうなるのでしょう。
これは私見ですが、本来の太尉の職掌の内、
総司令官としての職は大司馬将軍に受け継がれ、
文書事務などの面は丞相府で管理した、という感じなのではないでしょうか。
例えば、軍の人事とか、給与事務とか、恒常的に続く業務については、
常置の官ではない将軍ではなく、常置の丞相が統括した方が好都合という訳です。
そうだとすれば、太尉→丞相でありながら太尉→大司馬将軍という図式が成り立ちます。
よーするに太尉の職掌は二分された、という仮説です。

22 :6,11,14,17,20:04/04/09 02:24
二人ぼっち・・・
寂しいですね。

私は貴君ほど詳しくはないので
質問しながら応援してます。

23 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/09 08:29
>>22
一人はさすがに寂しいので、今後もよろしう。


次は御史大夫。
御史大夫は丞相の副とされ、三公制度においては三公の末席、司空となります。
御史大夫は丞相と比べると少し地位が下がり、「銀印青綬」(比二千石以上の印綬)です。
副官として丞と中丞の二つのポストが置かれています。
御史丞(中の付かない方)は御史大夫の純然たる副官と思われますが、
御史中丞はそうではありません。

中丞は殿中の蘭台をオフィスとして「図籍秘書」を掌り、
公卿の上奏文を受けて取次ぎ、文面点検やその弾劾をし、
部刺史と侍御史を統轄しました。

24 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/11 09:31
御史大夫について。
前漢においては詔は皇帝から御史大夫に下され、そこから丞相に送付され、
そこから九卿や郡太守へと送られるのです。
御史大夫なんざ通さずに丞相に直接渡せばいいんじゃないか、とも思うのですが、
こうなってます。

これは、一つには御史が皇帝(王)の側近、秘書的存在として発展したという経緯が影響しているといわれます。
後の尚書のようなものです。
また、より現実的な理由として、前述のように蘭台が御史大夫(中丞)所管であることもあるかもしれません。
蘭台で詔の管理記録等をしたとすれば、丞相より前に通過しないと記録に差し支えます。
(改竄等を防ぐには、誰の手も加わる余地の無い時点で記録しないといけない)

25 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/12 08:23
御史大夫について。
御史大夫が具体的にどんな仕事をして丞相の副として機能していたのか、いまいちよく分かりません。
ただ、時として丞相とは別に職務怠慢を責められたりしているので、丞相とは別の独立した職務を持っていたのは間違いないでしょう。

そして、武帝より後の時代ではほとんどの場合は御史大夫から丞相に昇進するのが通例になっており、
丞相の仮免、待合室的なポストであったのは明らかです。
当時の官僚は、太守から九卿を歴任し、御史大夫となり、丞相となるのがスタンダードな出世コースでした。

26 :世界@名無史さん:04/04/12 19:16
>>1
こっちで建てましたか。まぁ、それが無難でしょうね。
あまり書き込めるほど詳しくないけど、ROMってますわ。

27 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/13 08:22
>>26
正直今まだ寂しいので、指摘でも質問でもいつでもお待ちしてます。


御史。
御史大夫の下にあるのが御史です。
御史には二つ有り、御史大夫の下で働く御史と、御史中丞の下に付く侍御史があります。
侍御史は臣下の上奏などの中の非違を調べて弾劾したり、
朝会などの際に儀礼、規則違反などを見つけて弾劾したりします。
侍御史、御史中丞といえば後の時代では監察官の代名詞ですが、
それは漢におけるこれらの職務が継承されたものなのです。

28 :世界@名無史さん:04/04/13 19:46
久しぶりに中央研究院のサイトを見てみたら華陽国志とか読めるようになってたけど




ひょっとして俺が気づかなかっただけで前から読めた?

29 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/13 20:13
>>28
ほんとだ。
すごい、漢官も揃ってるし文献通考や元典章や大宋詔令集まで!
傷寒論とかも。長編もあるし・・・。知らんかった。前からありましたっけ?

30 :世界@名無史さん:04/04/13 20:58
たぶんこれまで有料だったのが無料公開になったんだと思われ。

うれしいけどぜんぜん読めねぇな、こりゃ・・・

31 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/14 00:17
>>30
なるほど。
検索できるのですか。現役時代にこんなのあったら楽だったかな?


太傅。
天子の傅役。
前漢では呂后時代の王陵、審食其、
そして王莽政権下で孔光がそれぞれ丞相または大司徒から遷った例と、
王莽自身が孔光の後任となったのみの筈です。
「位三公上」(漢書百官表)と、位の上では丞相以上と思われますので、
丞相の事実上の左遷、またはセミリタイア状態の長老格を就けるのには丁度良かったのでしょう。

後漢では皇帝が即位すると太傅が置かれて録尚書事を兼任し、後見人のような役割を果たしたようです。
意外にも(?)、これは王莽がその由来と思われます。
王莽は太傅、大司馬、領尚書事の官と職を持ち続けたのです。
後漢の太傅、録尚書事は、大司馬相当の将軍職を外戚が担った他は、王莽の時と似ています。

32 :世界@名無史さん:04/04/14 01:12
審食其・・・空閨の穴埋め男。

33 :28:04/04/14 01:20
今、見たら読めなくなってる。。。

34 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/14 08:23
>>33
付費使用とか書いてますね。

>>32
審食其は肉体関係はどうだったかはともかく、
呂后が死ぬと太傅に祭り上げられ、呂氏誅滅から僅かの間だけ丞相に復帰しているんですよね。

少なくともその頃は、丞相から太傅になるのは実権を奪うことに他なりません。
(漢書王陵伝参照)
唯一実権を持っていた太傅王莽の場合は、大司馬と領尚書事の実権であって、太傅のそれではなさそうですし。
それに対し、後漢では太傅が必ずしも単なる左遷先でもないらしいのが興味深いです。

35 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/15 08:18
後漢の太傅も録尚書事の職の方が重要なんでしょうけどね。
ただ、それにしても太傅の扱いが前漢と後漢で全く違うのが面白い。

で、太傅の仲間として太師、太保、少傅がありました。
位としては太師、太傅、太保、少傅で、これを四輔と称しています。
賈誼によればこれらは周制であり、太師は太公望、太傅は周公、太保は召公が就いたのだとか。
常に周公旦になぞらえられた(させた)王莽がずっと太傅であったのは偶然ではないでしょう。


36 :八作 ◆144/FHQQQQ :04/04/15 17:29
おお、こちらでしたか

37 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/16 08:20
>>36
いらっしゃい。よろしう。


四輔は平帝の時に現れたもので、幼帝を補佐するという名目で生まれたものでしょう。
そして、もう一度董卓が太師になっています。
太師は太公望が就いたとされるのですが、董卓は自らを太公望になぞらえようとしたのでしょうか。

38 :偶然見つけた。:04/04/17 00:57
邪魔するよ。名誉職だよね。師も傅も。

>>25に関しては首相と内相(総務相)の関係が説明しやすいと思うが。
浅い知識ながら。


39 :世界@名無史さん:04/04/17 01:33
いきなしすんませんが、蜀科ってどういう法律だったん?気になって飯が食えない

40 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/18 00:22
>>38
首相と総務相ですか。
正直ピンと来ない気もしますが、かといってどう説明すればいいのか明言できないです。

むしろ皇帝の官房長と宰相といった関係だったんですよ、元々は。
ただ元々であって、前漢後半までそういった関係がある程度でも維持されたのかどうか・・・。

太傅等については、太傅そのものには実権が無いに等しいのは間違いないと思うんですが、
漢では単に名誉職だった時期が意外と少ないですからねぇ。
後漢では幼帝の後見人としてある意味重要。

>>39
蜀科というと、三国時代の蜀におけるものですか?
三国志伊籍伝によれば、諸葛亮、法正、劉巴、李厳、伊籍によって定められたそうですが。
中身についてはよく分かりません。
諸葛亮伝で伝える「諸葛氏集目録」に「科令」なんて項目があるので、この辺に収録されていたのかもしれません。
流民や東州兵、そして豪族といった、今までの漢律では(たぶん)対応しきれない対象のために、
当時の政情に合わせた政令のようなモノだったのではないでしょうか。

41 :世界@名無史さん:04/04/18 15:35
うおー、ありがとう怨霊さん!!あー、でも諸葛氏集ってたしか残ってなかったような・・・(泣)

42 :世界@名無史さん:04/04/18 17:38
凄い、やっと官職スレみっけ。
万歳三唱、大いに応援します。
本日図書館で晋書から隋書までの職官部分をコピーしてもらってきて、
帰った早々覗いてみたらここを発見。
本日は大ラッキーデーです。
しかしうちの県立図書館、二十四史を国際国流室とかに置いてるから
今まで存在を気が付かなかったですよ。

43 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/18 22:50
>>41
残ってないでしょうね。少なくとも残ってると聞いたことないです。
何か知ってる人いたら教えてください。
そもそも、まとまった形で当時の律令が丸々残ってたら超級の史料です。
将来出土資料として何か出てくるのを願うくらいしかないのではないでしょうか。

>>42
県立図書館にあったのは中華書局版ですか?
官職部分をコピーとのことですが、相当の枚数だったでしょう。すごいッスね。
私は現在宋書まで買っとくんだったと後悔してます。

44 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/19 00:48
次。
前後左右将軍。「前後左右将軍」と、漢書百官表に実際に書いてあります。
なんと、漢書百官表には将軍の説明はこの前後左右将軍しかありません。
兵及び四夷を掌る、とのこと。
他の将軍はどこいったのでしょう?

大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍が将軍では上から4つ。
これらの筆頭にはさらに大司馬が付きます。
ということで、これらの説明は大司馬=太尉の項目に吸収されたのかも。
他の将軍は基本的に臨時の官なので説明の対象にならなかったか?

45 :世界@名無史さん:04/04/19 20:58
>>44
大、驃騎、車騎、衛、前後左右以外は雑号将軍ではなかったかな。

46 :世界@名無史さん:04/04/19 21:14
>>43
中華書局です。
宋書の女官部分含めてA3とA4で37枚370円でした。
唐以降はページ数が多そうななので、
一回に一冊づつコピーしてもらうことになると思います。
漢文はちんぷん漢文ですけどね。

漢の将軍等武官については「秦漢法制史の研究」「秦漢隋唐史の研究」
あたりでしょうか。

衛尉が中大夫令に改名されたのは疑問です。
衛士の長と大夫の長共通点がない。

47 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/20 00:36
>>45
続漢書職官志によればそうですね。
私が今紹介してる前漢では雑号将軍という語があったかどうか不明ですけど。
印象で言うと、ただの「将軍」がまずあって、
総司令、上級の将軍としての大、驃騎、車騎、衛、前後左右がある、と言う感じ?
で、「将軍」だけだと誰が誰だか分からないので任務などを表す色んな号を付けて呼ぶようになった、と。
それが将軍号のインフレ傾向と共に「雑号将軍」は価値が下落していったのでしょうか。

>>46
唐以降はすごい数ですよね。たとえば宋史では数百ページ。全部合せれば。

衛尉の中大夫令への改名については正直よく分かりません。
大夫は郎中令の所管の筈ですし。
あるいはその当時は大夫が衛尉所管だったのかもしれませんけど、あくまで推測ですし、
おっしゃるように宮門の衛兵と議論を掌る大夫の関係性が問題ですね。
ただ、各地から来る献策者を衛尉所管の公車司馬門などで(待詔公車という)皇帝からの返答、お召しを待たせる、
という事がしばしばあったようなので、衛尉と議論は無関係でもないのかも。
いや、これは妄想に近かったですが。

48 :世界@名無史さん:04/04/20 02:59
ちんぷん漢文ですけどねぇ?
オイオイ・・・

と反応だけしておこう。
規制解禁記念カキコ

49 :世界@名無史さん:04/04/20 20:08
このころの官職の職掌は良くわからないですね。
則天武后や玄宗の改名は単なる改名みたいですが、
このころは職掌自体が変更になってる感があります。
字面から現代の感覚で考える職掌と実際の職掌に全く関連がない場合もありますし。

将軍、楚は上将軍、漢は大将軍この当たりの変化も興味深いです。

50 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/21 00:38
>>48
気づかなかった。
DIONですか?

>>49
>字面から現代の感覚で考える職掌と実際の職掌に全く関連がない場合
これは確かにありますね。
主爵中尉を改組してどうして右扶風になるのか。
大鴻盧と典属国をわざわざ分置するのは何故か。
・事と大長秋はどう違うのか。
言い出すとキリがないですけど。

楚官はまるで詳しくないですが、項羽の時代の楚系の官と秦・漢官はどうも体系からして違うような印象が。
詳しい人教えて。

51 :48:04/04/21 01:13
>50
DIONです。

項羽と劉邦について
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/whis/1056173684/l50


#宰相と丞相と大元師の地位とかの役割教えてくれ!
なんて話が出ていましたので、
こちらの宣伝貼っておきました。

52 :世界@名無史さん:04/04/21 01:18
三国志などの役職名の順とか載せているサイトないですか?

53 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/22 08:27
>>51
大元帥とか言うとまったく別の時代のものを連想する人が多いかも。

>>52
憶えているのはないッスね。どこかにあるかもしれませんが。
三国時代なんかは官職の変遷がけっこう激しいし、不明な点も多々あるように思われますので、しっかりしたのはなかなか作るのも難しいかもしれません。


将軍。
前後漢とも、基本的に将軍は出兵の時に任命され、任務終了すると将軍位も返上します。
漢書百官表の「常置せず」、続漢書百官志の「事訖われば皆罷める」、というのはそのことです。
いわゆる大司馬将軍は昭帝即位以後はほぼ常置でしたが、これはそもそも出兵を前提としていないようなので例外でしょう。

54 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/23 00:27
奉常、というか太常。

「宗廟礼儀を掌る」とのこと。
これが九卿トップに来ているあたり、当時の祭祀の重要性を窺わせるかも。
名称は奉常から景帝中6年に太常に改めたんですが、
これって「奉」と「泰」の字形が似ていて、
なおかつ「泰=太」(意味、音とも。漢ではこの二字は通用する)だってんで
「奉常→泰常→太常」になったんじゃないだろうかと思ってしまいます。

前漢では列侯が就任するという慣習(?)があったらしいです。
それでいて「宗廟の瓦が強風で飛んだ」(昭帝の時、当塗侯魏不害)なんてけっこう理不尽な理由で罷免されたりします。
なかなか気苦労多くて大変な官だったんじゃないでしょうか。
ヘタすりゃせっかくの列侯位まで危ないですし。

55 :於プ羅 ◆LIXoOON5OQ :04/04/23 00:49
それは神祇官みたいなモンなの?

56 :世界@名無史さん:04/04/23 01:50
三公だって似たようなもんだし。

57 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/23 08:29
>>55
そうなのかもしれませんが、どうも他のどんな官に似ている、という表現がしにくい気もします。
太常の下には太楽、太祝(祠祀、廟祀)、太宰、太史、太卜、太医(後漢では少府に属す)、博士(長を博士僕射、後漢では博士祭酒という)といった属官があり、
前漢中期までは三輔近辺の皇帝陵県の県令まで太常に属していました。
天文・記録の官である太史、学識をもって仕える博士、さらには医局の長である太医まで含まれているように、
漢の太常の占める位置はかなり大きかったように思います。

>>56
罷免理由のことですね?
確かに三公がしばしば天変地異を理由に罷免されたというのと、理不尽と言う意味では似ています。
ただし、三公の場合は、天が天子に下した譴責に対し、実際の国政担当者として責任を取らされた(実質はともかく名目としては)のに対して、
太常の場合は不可抗力の事故であっても、それが宗廟・祭祀関係であれば不敬=職務怠慢だからという理由でのクビというところでしょうから、
さすがに三公のそれとは比べ物にならないと思います。

58 :世界@名無史さん:04/04/24 02:42
>57
三公ってそのために復活させたという説は本当かな?

年金という義務を怠っていた者が
大臣をやっていられる日本は
良い国なのかなぁ・・・

59 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/24 23:09
>>58
その説については知らないので詳しく教えてください。


太常。
属官として、雍の五畤その他を管轄、警護する官なんかも含まれていたようです。
漢書郊祀志によれば五畤は白青黄赤黒の五帝の祠があるところで、
それがあるのが右扶風の雍県でした。ここには五畤など303の祠があったそうで、(漢書地理志)
秦徳公がここを都とした事に始まるのだそうです。
そのほか、長安にも各地の祭祀を行う祠が建てられています。

これらの祭祀は元々は七国で行っていたものでしょうが、秦、漢が統一したことでその祭祀もまた秦、漢の皇帝の職務になったのでしょう。
そして、その各地の祭祀を皇帝から委任されているのが太常、ということになります。
太常の職務とは、皇帝の祖先祭祀関係のほか、こういった各種の祭祀全体の管理運営だったのです。

60 :世界@名無史さん:04/04/25 23:45
突然ですいません
高校の時に授業でさわりを教えてもらった
「塩鉄論」を探しましたが見つかりませんでした。
でもあの時代に塩専売とか専売解禁論者と対決する官僚とか
描写しているのはすごいと思いました。

61 :58:04/04/26 00:21
>59
どこで読んだか忘れたので
思い出したら書き込みます。
って、学者の著書とかでは
無かったはずなので
さほど期待しないでください。

62 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/26 00:26
>>60
原文でしたら「中華文化網離線閲覽」などで見ることが出来るようです。
中華書局から出版されていますし。
和訳は東洋文庫(平凡社)から出ています。
現在入手が容易かどうか分かりませんが・・・。


63 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/26 00:55
>>61
了解です。期待しないで待ってます。


太常。
太常属官といえば博士もいます。
博士は元は四百石、後に比六百石。長として博士僕射(後漢では博士祭酒、六百石)がいます。
博士は五経の有力学派ごとに立てられたらしいです。
さらに、武帝の時に博士の下に博士弟子が置かれ、徭役を免除して学問に専念させ、優秀な者は官僚として取り立てようというものでした。
博士弟子は50人から始まり、前漢末では最高3000人。
経書を学ぶ者が増加していくのはこういった事情によります。

64 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/26 08:32
博士弟子の増加が経書を学ぶ者を増やしたのか、
経書を学ぶ者が増加した事で博士弟子の員数を増やしたのか。
考え出したらキリが無い?


郎中令。
「宮殿掖門戸を掌る」官。宮殿内の警護です。後で出てくるであろう衛尉、中尉とは警護する場所が違います。
宮殿内の警護は「郎」が行うので、その長官即ち「令」ということで郎中令。
武帝太初元年に「光禄勲」に改称。
郎は、宮殿の門戸を守り、あるいは外征時には「車騎を充たす」そうです。
車・騎ということは、歩兵にはならないということで、指揮官または騎兵のようなエリート部隊になるということでしょう。
郎は親衛隊であり、エリートなのです。
郎になるのは前漢では推挙または「任子」によるものがほとんどの筈で、特に任子による供給が目立つかもしれません。
任子とは高級官僚の親がその子弟を郎にできるというもので、この制度のために前漢では親が官僚になると子も官僚、という流れが生まれました。
当時、官僚になれるほどの知識を得られる経済力と師を揃えられるのは官僚くらいだったのでしょう。
(子への教育を自分または部下にやらせる事ができる)

65 :世界@名無史さん:04/04/26 20:04
どの本だったか忘れましたけど、
漢の官僚は比二百石と百石の属吏の間で奏任官と判任官に相当するような格差があり、
その壁を越えるには皇帝の私的家臣の性格を持つ郎となる必要があったとされています。
つまり属吏から直接上級官にはなれない。
一方最下位の郎中でも比三百石と同じ本に書いてあったりもします。
すると三百石級の県長、署長以上はそれで良いとして、
二百石級(下級の丞,県尉等)の任用はどうなっていたんでしょう。
まあ武官の屯長(比二百石:小隊長級?)などは下士官級から直に昇進したのかもしれませんけど。

66 :世界@名無史さん:04/04/26 20:32
郎中令はそのもずばりの誤解の余地のない名称ですが、
光禄勲は意味不明瞭でどういう意味で名づけたんでしょうね。

67 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/26 22:37
>>65
私が知る中でおっしゃるような事が書いてあるのは宮崎翁の「九品官人法の研究」かと。
結局、キャリアとノンキャリ、または中央と地方の関係ってのは現代日本でもあまり変わらないということなんでしょうか。

>>66
漢書百官表の注、応劭によれば「光者「明」也。禄者「爵」也。勲、功也」との事ですが・・・。
(如淳注によると勲を門番としてますが、顔師古に従っておきます)
「明爵功」→「爵・功を明らかにする」?
郎中令が持つ、65氏の言うような官僚の昇進というか爵位の上昇に関する機能を言い表したのでしょうか?
私も正直言ってハッキリした事は言えないです。他の方々のご意見も聞きたいところ。

68 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/27 08:31
>>65
下級の官吏の昇進なんてのは私はよく分かりません。
出土資料から分かるのかもしれないですが不勉強なもので・・・。
誰か教えてください。


郎中令または光禄勲。
宮殿内の警護を掌る光禄勲ですが、属官としては大夫、郎、謁者とあり、
官名を見ても分かるように全てが衛兵ではありません。
大夫という、「顧問応対」(続漢書百官志)や使者となることを職務とする、
通常の業務には携わらない皇帝のスタッフ職もまたここに属しています。
大夫は比二千石(光禄大夫)から六百石(諫大夫、前漢は八百石)まで取り揃えており、
ポストの空席待ちや、左遷先としても機能していたと思われます(続漢書によれば定員は「無員」ですし)。


69 :世界@名無史さん:04/04/27 20:44
筑摩の「漢書列伝選」や平凡社の「漢書・後漢書・三国志列伝選」の巻末の職官表では、
郎中は比二百石となっていますね。
ちくま学術文庫の「漢書」百官公卿表では比三百石ですが。

秦の時代だったかもしれませんが郎中以外に、
外郎だか散郎だかも存在していたと言う記述を見たことがあります。
あるいはこれは比二百石だったのでしょうか?

また中郎(比六百石)、侍郎(比四百石),郎中の三職、
身分によって任用が違うとかあったのでしょうか?
それとも初任は原則郎中?

中大夫から改称された光禄大夫が比二千石、大中大夫が比千石、
名称から言うと上下が反対ぽいですね。
後世は逆転してますけど。


70 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/28 00:18
>>69
漢書百官表、続漢書百官志ともに郎中は比三百石みたいなんですけどね。
何か他の典拠か研究があるのでしょうか?

漢書恵帝紀には、「外郎」という語が出てきます。
これはどうやら(漢書補注より)「中」に対する「外」と解釈するようで、
禁中にいた(と思われる)「中郎・郎中」に対してそれ以外の郎ということのようです。
これはあくまで恵帝期の話で、おそらくその後色々と郎についても変遷を経ているのだと思いますが。

漢の初期では、初任官としての郎は単に「郎」としか書かれなかったりしているようなので、
どの郎になったのかといった事は正直私には分かりません。

光禄大夫と太中大夫ですが、光禄大夫は中大夫が改称したというより、
一旦中大夫が廃止されて新たに太中大夫の上に光禄大夫が置かれたという感じなんでしょうね。

71 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/28 00:47
光禄勲というか郎中令。

中郎の長、指揮官が「中郎将」です。五官中郎将、右中郎将、左中郎将(比二千石)の三つがあり、
これらの郎を合せて三署郎なんて言います。
一番有名な五官中郎将といえば曹丕ですね、関係無いですが。
また郎中の長が「郎中将」です。車将、戸将、騎将(比千石)の三将があります。
前漢では、どうやら郎中と中郎は所属自体が違うみたいですね。

後漢では郎中将は廃止されて中郎将に合わせられ、中郎将が中郎、侍郎、郎中全てを率いています。

72 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/28 08:31
郎について。

漢書百官表、続漢書百官志によれば、郎は四種類。
議郎(比六百石)
中郎(比六百石)
侍郎(比四百石)
郎中(比三百石)
合計千人にも及ぶそうな。

また、それとは別に「期門」、平帝=王莽時代以降は「虎賁」がありました。
皇帝に付き従う郎であったようで、武帝初期に置かれ、これも千人にも及びました。
この虎賁郎にも虎賁中郎将が置かれます。
虎賁郎は子が父の後を継ぐような制度だったようです。
されに「羽林」。これも皇帝に付き従う郎。
(他の郎は宮殿の警護が職務であり、必ずしも皇帝の側にいるとは限らない)
これは武帝末期に置かれ、戦争孤児を養育して軍事教育を施した者と、
北辺の六郡良家子を抜擢した者(董卓がそうでした)とで構成されたようです。
これにも羽林中郎将が置かれ、その下の郎は「羽林郎」(比三百石)。
なお、羽林は騎兵が中心だったようです。

73 :世界@名無史さん:04/04/28 19:54
 職官表について、漢書列伝選(三木克己訳:初版1992年ただし訳者は1972年逝去)の
方は参考資料についての注記なし。
 漢書後漢書三国志列伝選(本田済編訳:初版1973年)の方は漢書百官公卿表をもとに
通典、通考を参照して作成と書かれています。
 どちらも特に注記がないので訳者が作成された表だと思います。

濱口重國氏著の「秦漢随等史の研究」によると、後漢の虎賁郎は虎賁中郎(比六百石)、
虎賁侍郎(比四百石)、虎賁郎中(比三百石)、節従虎賁(比二百石)の四段階に別れて
いました。(後漢書百官志より)
 更に隊長格の虎賁僕射、虎賁陛長(共に比六百石)が有り。
 なお羽林郎は比三百石一本。

 臨時代理的存在の守長、守尉、守丞等は、郡の掾史(属官)から任用さていたようです。
 この場合治績を上げれば、太守の推薦で他郡の正規の長、尉、丞等に任命されることも
あったのでしょうか?
 まあ太守の推薦を受けた掾史は、郎の方の人材供給源でもあったわけですが。

 比二千石以上が親任官、比六百石以上が勅任官、比二百石以上が奏任官、百石以下が判任官といったイメージがあります。
 すると同じ郎でも中郎はいきなり勅任官?

 ところで郎って千人もいて普段はなにをしてたんでしょうね。
 使者とかも務めたようですが、親衛隊員にしても給与の割に人数多すぎな気が。
 尚書郎とかは本来は出向だったようですから、そう言う風に出向した人もいたんでしょうけど、おそらくそれも半分にもなりませんしね。

74 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/29 19:10
>>73
さて、郎中が比二百石という典拠はどこなんでしょうね。
羽林郎が一種類しかないというのは、羽林の成り立ちを考える上で興味深いです。
羽林は騎兵によって構成されていたようで、
(漢書百官表には「羽林騎」という表現があるし、続漢書百官志には羽林右騎、左騎とある)
皇帝の護衛としても虎賁その他とはこの点で違っていたのかもしれません。

細かいことかもしれないんですが、「守」というのは「臨時代理」というよりは「見習い、試行期間」という感じだったようです。
それがはっきり現れるのが前漢の三輔で、まずは「守」付きの三輔に就けられ、
(官秩などは元の官のものだったようです)
一年経って問題が無ければ「真」になる(官秩などが本来のその官のものとなる)という制度だった筈。
そしてこれは三輔のみの話ではなく、広く郡県のポスト等で行われていた制度でした。
ということで、郡の属官から守丞等になった場合も、まずは就任していたポストで正規の官秩になるのでしょう。
他の郡というのはちょっと記憶にありません。

官秩と任官ですが、郎はそもそも就任する方法が特殊なのでなんとも言い難い気がします。

郎は普段は衛兵でしょう。
五日に一日の割合で「洗沐」といういわば有給休暇があるので、輪番の交代制だったと思われます。
また漢書楊ツ伝には、郎は病休あるいは私用での休み一日ごとに文房具を自費で買って供出するということになっていたとあり、
金持ちの郎は仕事に行かず金で休みを買っていたということだったそうです。
(なお、それを司馬遷の外孫楊ツが改革した)
こういった状態からも分かるように、千人といっても常に千人が職務にあったわけではないのでしょう。

75 :世界@名無史さん:04/04/29 21:00
後漢の守官について
濱口重國氏著の「秦漢随等史の研究」によると
(1)守令等は勅命官の資格をもたない者を仮に任じた。
(2)そのままでは何年在職しても真官にはなれない。
(3)郡太守により任命された。
(4)郡内の人が任用された。ただし該当の県の出身者は通常排除された。
(5)真官の令等は郡内の人間は任用されなかった。
と言うことのようです。
なお試守官は例えば四百石の県に三百石格の人を任命する時に使ったようです。

76 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/29 22:14
>>75
むむ。そうでしたか。これは失礼。
三輔やら太守やらのレベルでの「守」とは違うのでしたか。
共通するのは「守」がより低い官秩(資格)しか持たない状態からより高位の官に就く場合ということでしょうか。
濱ちゃんとかお持ちでしたらこれからも色々修正や補足お願いします。

真に臨時代理なのは「行○○(事)」ですね。
他の官にある者が、不在(欠員、病欠、出張その他)の者に代わって上奏、決裁などをするものです。
臨時ですので基本的にはその場限り。

77 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/29 23:35
衛尉。

厳密には未央衛尉と言うべき?
皇太后宮である長楽衛尉、離宮である建章衛尉(長安の西)、甘泉衛尉なんてのもあります。
「宮門衛屯兵を掌る」(漢書百官表)のだそうです。
光禄勲(郎中令)との違いは、守るのが宮殿の中か外側の門か、という事でしょう。

但し、単なる武官という訳でもなく、公車司馬令などは独特の職務を持っています。
それは、彼の管轄である公車司馬門は、吏民の上奏、貢献、皇帝からの徴などの際に必ず通る場所で、
それらを管理するところであるということです。
そのため、公車司馬令の丞には諱に詳しい者を選ぶのだとか。

その他、北宮、南宮の衛士令、左右都候なんてのも衛尉に属します。
面白いのは左右都候で、宮殿を巡回する剣戟の士を掌り、
更には皇帝が臣下を逮捕する際に使われるのがこの左右都候配下の剣戟の士なのだそうです。
(続漢書百官志)

78 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/30 00:41
衛尉。

衛尉は前漢では二十二の屯衛(候、司馬といった隊長格が置かれていた)を管轄し、
後漢では七つの宮門(平城門、蒼龍門、玄武門、北門、南掖門、東門、北門(二つある?))
を管轄したようです。

なお、衛尉は前述のように離宮や皇太后、太皇太后宮(長楽宮、長信宮)にも置かれました。
これらは皇帝の(未央)衛尉と違い常置ではないですが。

79 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/30 08:26
衛尉は景帝時代に「中大夫令」に一旦改称し、後にまた衛尉に戻したといいます。
前に話題になりましたが、そのあたりの事情はよく分かりません。
景帝や武帝の官名改称の時期ともずれていますし。

太僕。

車馬を掌る。具体的には、皇帝の乗る車の御者から、軍用の馬の養育、管理、更に後漢では兵器の製作も担当したようです。
実際に皇帝の御者になるという関係からか、太僕になるのは皇帝と特殊な縁故がある者が多く、
また在任期間が比較的長い傾向があるようです。
(少なくとも前漢では。例えば武帝の時の公孫賀は33年在任し、しかも後任は息子)
前漢では辺郡に36箇所の牧場を作り、そこで30万頭の馬を生産していたそうです。
(漢書百官表注引漢官儀)

80 :世界@名無史さん:04/04/30 20:05
大僕と言えば配下の家馬令=?馬令も不思議ですね。
 家馬令の方は皇帝の私馬を司る、?馬令の方は葡萄酒造りとかどこかで読んだことがあ
りますがよく分かりませんね。
 衛尉の部下の旅賁令も走り使いとか書いてあるけど意味不明?


 大庭脩氏の「秦漢法制史の研究」第5章「漢の官吏の兼任」によると、
1 守官とは、某官心得ともいうべきもので、卑秩(又は卑位次)の官職にあって高秩(又
 は高位次)の職を兼ねる兼任である。それは唐時代の守官の卑位高職の意味と相似たも
 ので、兼任者の選任は慎重に行われた。
  それに対して行官とは、某官事務取扱というべきもので、秩次等による兼任の原則は
 見出し難く、したがって唐時代の行官の高位卑職の意味は、全く看取されず、兼任者の
 選任は便宜的であるように思われる。

2 守官の置かれた官には本務者がいず、したがって守者は制度的には自己の本官と、守
 官の二官を一人で兼ねているが、行官の置かれた官には本務者がおり、一時不在の場合
 が多かったと思われる。
 とあります。

 結局守官とは、資格の足りない人が本官を持ったまま本務者が欠けている上級の官の事
務を執ることのようです。
 その場合本採用を前提とした試験期間の場合も有れば、あくまで代理にとどまることも
ある。三輔太守の場合等は前者に当たり、県の守令等の場合は後者に当たる、と言ったと
ころでしょうか。
 


81 :世界@名無史さん:04/04/30 20:08
 御史大夫の官秩って万石でいいのでしょうか?
 御史大夫の棒級が丞相等より一段低いことは間違いないのですが、官秩が区分されてい
たかどうかが疑問です。
 週間朝日百科世界の歴史12「紀元前の世界、焦点3帝国・完了・軍隊」収録の「帝国
と官僚:東北大学助教授山田勝芳氏」では万石を公(丞相・大将軍)と上卿(御史大夫)
にわけています。
 上から公・上卿・中二千石・真二千石(前漢後期:大郡太守)・二千石・比二千石・千
石・比千石・九百石(名称のみ存在)・八百石(前23年廃止)・比八百石(前23年廃止)
・七百石(名称のみ存在)・六百石・比六百石・五百石(前23年廃止)・比五百石(前23
年廃止)・四百石・四六百石・三百石・比三百石・二百石・比二百石・百石・比百石・斗
食・佐史の順。

 比較国制史研究序説(柏書房)収録の中国古代専制国家論(渡辺信一郎氏)では、
万石・中二千石・二千石・比二千石・千石・比千石・八百石・比八百石・六百石・比六百
石・五百石・比五百石・四百石・四六百石・三百石・比三百石・二百石・比二百石・百石
・斗食・佐史
 うち比千石・八百石・比八百石・五百石・比五百石は前漢のみとなっています。

 比較すると九百石・七百石は名義だけなので無視するとして、後漢での比千石の存在?
比百石の存在?御史大夫の官秩が議論のある点でしょうか。

下級官吏の嗇夫等には有秩と斗食の別が有るようですが、有秩は斗食の上二百石の下のようです。
 有秩とは百石級の別称のようですが、百石以上が本来の秩だと言う意味でそう呼ばれたのでしょうか。
 あと秦代で武功によって五十石の吏に任命されるとか言う話をどこかで読んだことがあ
りますが、この場合の五十石は斗食ないし佐史に相当するんでしょうかね。


82 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/30 22:48
>>80
トウ(手偏+同)馬令の事ですね。
家馬令からトウ馬令への改称は、もしかすると馬匹の管理を公私一元化し、
仕事のなくなった家馬令に馬酪(葡萄酒ではなく馬乳から作る飲料です)作りをさせた、というのが実態かもしれないですね。
いや根拠はないんですが。
なお、トウ馬令での馬酪作りに、楽府廃止により余剰した楽団員を当てた、なんて話もあります。
(あるいは楽団員は盲人なのでそういった単純作業に当てた?)
旅賁令は衛尉の守る門と門、もしくは門と宮殿の間の取り次ぎ、伝令あたりでしょうか?

大庭氏のその論文は憶えがあります。というか基本的にはそれに拠って話してました。
(記憶頼りでしたが)
でも「守」については私不十分だったようでスイマセン。

>>81
山田先生らが何に拠ったのか分からないので何とも言いがたい面もありますが、
漢書百官表の注、臣サン(王賛)の引く「茂陵書」によると御史大夫は中二千石だそうで。
傍証としては、漢書百官表の御史大夫の条によれば、大司空に改組された時に「禄比丞相」となっています。
つまりそれまでの御史大夫は丞相より下の禄であった=万石ではない。
あと続漢書百官志によると「郷置有秩、三老、游徼」「有秩、郡所署、秩百石、掌一郷人」となっており、
「有秩」とは下級の吏(百石)の官名そのものですね。
秦代の話は私は知らないので賢者を待ちましょう。

83 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/01 11:24
太僕について。

後漢では河西の六郡での馬生産(辺郡六牧師エン令)が軒並み廃止されるなど、
太僕はかなり機能を縮小されています。
これは後漢の軍事力に相当な影響を与えた筈で、前漢の自前の騎兵を万単位で揃える動員力は過去のものとなったと言って良いでしょう。
これは経済面、民政面から見たプラスの意味での軍縮という面と、
国家の統制力などの減退により前漢のレベルを維持できなくなったから、というマイナスの面があるように思います。
思うに烏丸、鮮卑、羌などの伸張、跋扈を許したのは後漢の軍事面での弱体化によるところが大きかったと思うのですが、
その後漢の弱体化を如実に示しているのがこの太僕の縮小ではないかと思います。


関係無いですが、衛尉に長楽衛尉があったように、太僕にも中太僕という皇太后のための太僕がありました。
これは純然たる皇太后の御者でしょう。石顕の左遷先ですね確か。

84 :世界@名無史さん:04/05/01 11:33
トウ馬令、一太郎で打ってた分を張り付けしたら?になってしまいました。

外郎、学研歴史群像シリーズ33「項羽と劉邦」収録の「漢代の兵制」によると、
著者の静岡大学助教授(当時)重近啓樹氏は厳耕望氏の「秦漢郎吏制度考」により外郎存在派のようですね。
統率者としての外郎将の存在も想定されているみたいです。

どこで読んだか忘れたんですが確か商子に千石之令は護衛兵百人、八百之令80人、
以下七百之令70人、六百之令60人と言う記述つがあるようです。
すると秦には少なくとも七百石は存在したようで漢の七百石・九百石は秦の遺制なのでしょう。

千石・比千石・九百石・八百石・比八百石・七百石・六百石・比六百石・五百石・比五百石・
四百石こう並べると、確かに多すぎるので廃止されたのでしょうが、
奇数の秩が廃止されているのやはり偶数の方が切りが良いということでしょうか。
また九百石より比千石の偉そうだ言うことがあったかもなどと思います。

85 :世界@名無史さん:04/05/01 11:46
有秩
大庭脩氏の「秦漢法制史の研究」第四章漢の嗇夫によると
士吏、候長、嗇夫等の下級官吏には官秩に有秩と斗食の別があり、
公的性格の強い文書では有秩士吏、有秩候長、有秩嗇夫と、
斗食と区別して書いたと推定されています。
で郷有秩は郷有秩嗇夫の略、つまり郷嗇夫のうち有秩のものをそう称したようです。

86 :世界@名無史さん:04/05/01 20:56
太子舎人(後漢書によれば二百石)は任務的には郎に準じたようですが、
任用的にも郎と共通点があったのでしょうか?
あるいはこれが県尉あたりの人材供給源かもしれませんね。

87 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/02 00:36
>>84
>外郎将の存在も想定
ありえないとは言い切れないでしょうけど、「想定」ということは根拠は特になし?

官秩については、やはり多すぎるのは面倒というか省略したんでしょうね、多分。

>>85
>有秩
そうでしたか。重ね重ね補足ありがとう。
そういえば続漢書でも「其郷小者、県置嗇夫一人」という文が有秩と並置されていますね。
嗇夫の中でも官秩が大きい(「有秩」に該当する者)が有秩とよばれた、という事でしょうか。

>>86
どうでしょう。それについては私にはよく分かりませんが、規模という面で正直ムリがあるように思います。
(続漢書の注によれば十三人ですから、県尉の人材供給源といえるほど人材がいないのでは)

88 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/02 15:44
廷尉。

裁判、刑罰を掌る。
ここが他の九卿と違うのは、副官として「丞」がいないこと。
その代わりに「正」と左右「監」、左右「平」がいました。
「正」「監」は秩千石と九卿の丞と同じ。
廷尉だけが特殊なのは、その職掌や成り立ちと関係あるのでしょう。
というのは、「尉」という名称にも表れているように軍事的な官から由来しているようなのです。
そして、「正」「監」というのは、前漢で将軍の監察として存在したらしい「軍正」「監軍御史」などと名称が共通します。
こういった将軍に置かれる監視役が形を変えたものが廷尉の副官(?)ではないでしょうか。

廷尉は具体的には皇帝の勅命による獄事(詔獄)の取調べから刑罰の上言までを行い、
また郡国での裁判で決定できないものを決定する(言獻)ことを主な職務としました。
後漢では「監」「平」を一名とし(左だけ残した)ています。
なお、廷尉平は宣帝地節3年に置かれたものです。

89 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/02 16:13
廷尉。

廷尉は景帝中6年に一度「大理」と改称されています。
しかし同時期の他の改称と違い、武帝建元4年に廷尉に復しています。
このあたりの理由が良く分かりません。
なお、哀帝が元寿2年、おそらく三公制を中心とする官制改革の中でまた大理に改称しました。
後漢では一貫して廷尉だったようですが、曹操の魏国内では漢と区別するためか大理と称していたようです。

景帝、哀帝の時は、「尉」という明らかに武官系の名称でありながら兵を領しているわけではないというあたりが、「尉」という名称を排除する方向に向かったのでしょうか。
中尉は改称して衛尉は改称しないとか、なんだか良く分からないですけどね。

90 :世界@名無史さん:04/05/03 10:51
廷尉=大理は大庭先生によると治粟内史→大農令→大司農とならんで、
いわゆる九卿の中で国家的な使命を果たす官庁ですね。
あとは少なくともな成り立ちの上では皇帝個人に奉仕する宮内的官庁。
王莽がどうして作士などと改名したのか疑問です。
周礼になどありましたでしょうか?
あと廷尉は付属官庁がない(令長がいない)のが特徴ですね。

91 :世界@名無史さん:04/05/03 15:30
>>87
外郎将
本文では書かれていないのですが附表に
 郎中令ー中郎将ー中郎
    −郎中将ー郎中
    −(外郎将)ー外郎
とあります。
外郎将は外郎の存在を前提に、中郎・郎中に将が存在する以上、
外郎にも将があるのではないかと推定されているのでしょう。
あくまで一般向けの本ですから、
この文章だけではこれ以上のことはわかりませんね。

92 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/03 22:45
>>90
大庭先生の論文(著作)にそういったことが書いてあったような記憶ありますね。
「作士」ですが、ちらと調べた限りでは尚書や史記五帝本紀で舜がコウ陶について「汝作士、五刑有服」(史記より)と言っているようです。
それに対し馬融によれば(史記集解、尚書の注でしょう)「獄官之長」とのこと。
ここからでしょうか?

>>91
確かに「外郎」なるものが中郎、郎中と別に存在している以上は同様の制(将がいる)である可能性は否定できないですね。
ただ、それがその後どうなったのかが気になるところです。
あくまで仮定ですが、外郎が期門へと改組されたのでしょうか?

93 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/04 00:47
典客。

後の大鴻臚。職掌は現行漢書百官表では「諸帰義蛮夷を掌る」なんですが、帰義蛮夷だけだとすると典属国との違いが・・・。
で、実は資治通鑑13巻、漢紀、高皇后8年の条では「掌諸侯、歸義蛮夷」となっていたりします。
(はるか昔に私も参加した読書会で話題になったです)
これなら分かりやすい。続漢書では「掌諸侯及四方帰義蛮夷」となっていて、まさにこれ。
というわけで、漢書の本文はおそらく脱字があるんですね。
具体的には、諸侯王や帰義蛮夷(内地に住んでいる漢に従属した蛮夷。)、それと郡国邸の管理なんかをしたようです。

94 :世界@名無史さん:04/05/04 18:28
典客→大行令→大鴻臚
属官が行人令→大行令
ややこしいですね。

鴻とは声、臚とは伝えることで、鴻臚は伝声引導の意味と
中国歴代職官辞典(日中民族化学研究所編:国書刊行会発行)にありましたが
なにか古典の方で出典があったのでしょうか?
それ以前のそのものず張りの官名に比べてわかりにくいですね。

職掌について後漢書では、「掌諸侯、四方歸義蛮夷」となっていますね。

>大庭先生
 「秦漢法制史の研究」「図説中国の歴史(講談社)」などでそう書いておられます。

95 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/04 22:49
>>94
鴻臚の字義は、漢書百官表の応劭注が「鴻とは声、臚とは伝えること」となってますね。
景帝、武帝の時の改称は古典からの典拠が明確でないような気がしますが、出典はどうなんでしょう?

大行への改称の方が理由とか(官名の)意味とかはっきりしなくて興味ありますね。
ついでに言うと行人→大行って何をする官だったのでしょうか。
どうも諡を奏上したりしてるみたいですけど。

96 :世界@名無史さん:04/05/05 14:34
大鴻臚
王莽の改名は典楽、楽は礼に通じるとの思想があったとは言え大胆な改名ですね。
あと大○○、大○令って官名が実に多いです。

97 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/05 22:47
>>96
景帝の時は「大農令」「大行令」と大○令で、
武帝の時は「大司農」「大司馬」と大○○ですね。
王莽の改称も単に周礼に沿ったというだけでもないのかもしれませんね。先行研究とかあるんでしょうか。


大鴻臚。
成帝河平元年、大鴻臚に典属国が編入されます。
典属国は「蛮夷降者」を掌るもので、正直大鴻臚の「帰義蛮夷」という職掌との差異が分かりにくいですし、ある意味当然の改組かもしれません。
属官には行人(後に大行)、訳官、別火とあるんですが、訳官以外は何をやるところだったんでしょうか?

98 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/06 00:40
宗正。

皇室=劉氏(宗室)の管理を掌る。
漢では宗室劉氏を官庁を作って管理していました。
これが優遇なのか、それとも警戒なのか、微妙なところかもしれません。
続漢書百官志によれば、毎年宗室の名簿(親族関係などを記載したらしい)を郡国の上計の際に提出することになっていたらしいです。
宗室の具体的な優遇措置としては、これも続漢書によれば、宗室でコン刑以上の犯罪があった場合に場合に宗正に報告し、宗正は上奏して処分を決定することになっていた、ということだそうです。
そのほか、徭役や賦税免除もあったかもしれませんが根拠忘れました。
調べます。それか知ってる人教えてください。

99 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/06 08:26
宗正。

漢書平帝紀(元始5年)によれば宗室とは高祖劉邦と楚元王交、呉頃王喜(仲)の兄弟の子孫で、前漢末で「十有余万人」とのこと。
(だとすると嫁がスープをケチったという長兄の子孫は数に入れられていないのでしょうか。それとも単に子孫が続かなかったのでしょうか)

また、漢書文帝紀より宗室の優遇措置を発見。
「復諸劉有属籍、家無所与」(前4年)
「復」とは「復除」、徭役免除です。宗室の「属籍」に入っていれば、その家は徭役を免除されたということになります。
(税は別だったと思われますが、詳細確認中)


100 :世界@名無史さん:04/05/06 20:27
制度とは直接関係ないのですが、劉邦には親戚(従兄弟とか叔父)はいなかったのでしょうか?
明の太祖の場合は家族崩壊した貧農出身ですから親類など出てこなくても当然ですが、
劉邦は一応中農クラス以上のはずであれだけ出世すれば親類の5人や10人しゃしゃり出てきそうな気がするのですが。

大○○
 単なる農令や司農、司農令でも意味の上では問題ないと思いますが、
 わざわざ大をつけるのは「皇帝の」の意味を強調したいからでしょうか?
 最も太僕は諸侯王国にもありましたけどね。

あと大と太の使い分けはあったのでしょうか?
 大将軍、大行令、大司農、大長秋等
 太守、太倉令、太僕、太尉等
 基準がさっぱりわかりません。

101 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/07 00:09
>>100
漢書では、荊王劉賈は劉邦のイトコ、燕王劉澤はマタイトコということになっています。
しかし史記では「諸劉、不知其何属」(荊王賈)、「諸劉遠属」(燕王澤)と、どちらも正確な親族関係不明です。
これはどう解釈したものでしょうね。
他の「諸劉」は楚漢戦争で滅んだりちりぢりになったのか、そもそも劉太公は一代でそれなりの財を築いた根無し草で親戚は少なかったのか。
また漢書になると急に(?)親族関係が明らかになるのは、
「どんな関係かも分からないヤツが王になっているのは、宗室劉氏以外は王にしないという祖宗の法に反する恐れアリ」
などという判断からなのか。

大○○について、極端な仮定ですが、「農令」なんかだと「農県の県令」(いや、そんな県はないですが)と誤解される可能性があります。
「大○」令とすることで、「大」が付くから県ではなく中央官庁だな、みたいな区別がついたのかも。
大司馬、大司空はまさにそれですね、そういえば。

「大」と「太」ですが、どうも簡牘資料なんかでは「太」の点がなかったりしてるようですし、
(そんな詳しくないのでツッコミ歓迎)
筆記レベルでは大した差ではないのかもしれません。

102 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/07 08:30
宗正。

宗正属官としては、都司空令、
(罪人をつかさどるそうなので、宗室の犯罪者を取り扱うのでしょうか。後漢に廃止)
公主家令・門尉、
内官(実は何をするのか良く分からないです。字からは皇帝の内向きの事をしたような印象ですが・・・)
がありました。

あと、宗正といえば宗室劉氏しか就任できなかったらしい事も特徴ですね。
少なくとも前漢はそうでしたが、後漢も同じでした?

103 :世界@名無史さん:04/05/07 21:00
内官長
 小竹武夫氏の漢書百官公卿表の翻訳の注では尺度を掌る。
 前出の本田済の前漢職官表では度量衡を司るとあります。
 どうして宗正の部下なのかよく理解できません。

農令
 たしか辺境の屯田長官である農都尉の部下に
農令、農長、農司馬があったような気がします。

宗正
 王莽は秩宗(太常)に併合、あまり宗室対策を重視していなかったのか?
 そのわりには宗室に爵位をばら撒いてますけど。

劉氏
 どうも近い親類には碌な人物がいなかったのかもしれませんね。
 漢書功臣表にも数人の劉氏がいますが劉澤以外は系譜の明記がないようです。
 賜姓された項氏も混じっていますし。
 それと後漢での宗室の範囲はどこまでだったのでしょうか?
 中山王の子孫が宗室であれば、劉備が本当に子孫かどうか本来は議論の余地はないはずですね。



104 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/07 23:47
>>103
内官について、それは漢書律暦志の
「度者、分、寸、丈、引也、所以度長短也。・・・職在内官、廷尉掌之」
が元のようです。度量衡の「度」ですが、しかしこれでは内官は廷尉の下にあることになり、なんかオカシイ感じです。
また、史記李斯列伝には「(趙)高曰、高固内官之廝役也」 とあり、「内官」を皇帝の内向き(あるいは宦官そのもの?)のような意味で用いているようです。
同じく史記孝景本紀には「左右内官」を「大内」なる謎の官に置いたとあります。
ますます「内官」の正体が分からなくなりました。

農令については知りませんでした。ただ文献では確認出来なかったので、典拠か何か分かりましたら教えて欲しいです。

宗室対策云々というより、宗正自体がそもそも独立した官庁にするほどの仕事だったのかどうか、と言う面もあるかもしれませんね。
新で言うところの秩宗の一部門程度の職務だった、というのは言いすぎか。

漢初、劉邦の血族、劉賈、劉澤、元項氏以外の劉姓として、
東茅侯劉到(高祖の時)
平都侯劉到(恵帝の時、上とは同姓同名の別人のはず)
陽信侯劉掲(呂氏を滅ぼす時の典客、文帝の時)
あたりが見つかります。というかこれくらいしか見つけられませんでした。
(漢書高恵高后文功臣表より)
いずれも、少なくとも劉邦らとの血縁関係は明記されていないですね、確かに。

宗室が何世代経っても「属籍」に入っていたのかどうか、が問題かもしれません。
天子の廟でさえ七代後には破壊されるのですから、宗室も世代を重ねると諸侯王や列侯以外は籍がなくなってしまいそうな気もします。
この辺は調べているところです。何かご存知の方教えてください。
後漢はどうなんでしょうか。まだ確認してないです・・・。

105 :世界@名無史さん:04/05/08 20:20
農令等は残念ながらどこで読んだのか思い出せません。
確か居延漢簡を元に漢代の辺境制度についてかかれた本だったと思うのですが。

大内
 平凡社の史記の翻訳では「内史を左右に分ける」となっています。
 底本が違うのでしょうか?

 中華書局版は「以大内為二千石」「置左右内官、属大内」で、
 注釈が集解:い(偉の人偏のない字)昭曰「大内、京師府蔵」
 索隠「主天子之私財物少内。少内属大内也」とあります。

大庭脩氏の「秦漢法制史の研究」第四編第四章漢の嗇夫によると
漢書丙吉伝に少内嗇夫なる官が載っています。
顔師古の注ではえき(手偏に夜)庭の府蔵を司る官であるようです。
大庭先生ではえき庭八丞の中に少内丞がいてこれが上司ではなかったかと推測されています。     

「岩波講座世界歴史5帝国と支配」所載の「中国古代の法と社会(飯尾秀幸著)」
で紹介されている秦代の制度(湖北省雲夢県出土の睡虎地秦簡による)では、
県内の銭布を収納管理する県少内または府中と称される官がありその責任者は少内嗇夫といったようです。

あとどこで読んだのか思い出せないのですが、秦に大内、少内という倉庫があったとか読んだ覚えもあります。
どうも大内、少内とは秦に由来する倉官のようですね。

宗室
 明・清だと犯罪を犯して籍を抜かれない限り末端でも最低位の爵奉国中尉(明)、奉恩将軍(清)をもらえたようですが、
 漢代はそこまで甘くなかったのか?
 新から後漢への移行期の混乱で宗室が淘汰された可能性は高いですね。
 ところで劉備も劉秀も武帝の異母兄弟の子孫ということになってます。
 劉備の出自は?マーク、宣帝の出自を疑う人もいます。
 さて、劉秀の方は本当に疑う余地もないのでしょうか?
 それと更始帝の後漢における位置付けってどうなんでしょうね? 

106 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/08 22:27
>>105
農都尉属官についてはありがとう。できる範囲で私も調べます。

大内と内官ですが、平凡社の件は見ていないので何とも言えません。
本文の方ではいきなり「大内」なる官が出てくる感じですね。
この大内、少内、少府なんかについては山田勝芳先生が論文を書いていた筈です。
ご覧になったのもそれかもしれませんね。
もし見ることが出来たら紹介します。

宗室について、漢ではハッキリした優遇措置としては復除、あとどうやら郎官への任官などへの便宜もあったようです。
(後漢書劉焉伝)
ただ、一方で三河(河東、河内、河南)太守になれない
(漢書劉キン伝、劉キンは河内太守になるところをそのために五原太守に遷された)
などの制限もあったようですし、官僚などとして生きていくにはイイ事ばかりでもなかったのかもしれません。
とはいえ、当時復除を受けられるというのは結構な特典だった筈で、あるいは南陽の劉氏一族の繁栄にも一役買ったのかも。
更始帝について、後漢書劉玄伝によると光武帝は更始帝の子三人を列侯とし、長子に更始帝の祀を奉じさせたとのことです。
劉盆子に与えた措置(趙王の郎中)と比べると格段の違いですね。当然といえば当然ですが。

107 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/08 23:24
ところでこのスレ見てるのは私と105氏の2人?

治粟内史。

「穀貨を掌る」(漢書百官表)。
丞二人ということなので、もしかすると穀担当と貨担当に分かれてたのかも。
景帝後元年に大農令、武帝太初元年に大司農に改称。
おそらく少府と並び、漢において変遷や新設部門などが多い所でしょう。
名前以上に、武帝の頃にその地位や機能が激変したと思われます。


108 :世界@名無史さん:04/05/09 01:13
ROMですがおります。はい。

109 :世界@名無史さん:04/05/09 01:39
一応見てはいるんだけれど・・・

110 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/09 11:32
むむ、もし私のせいで入りにくくなっているのならゴメンなさい。
やり方が良くない?


大司農。
漢書百官表によれば属官は以下のとおり。
太倉令
均輸令
平準令
都内令
籍田令
斡官長
鉄市長
郡国諸倉農監
都水官長
郡国塩官、鉄官
捜粟都尉

(続漢書百官志にはこの他に導官令、廩犠令があります。
 後漢では均輸、都内、籍田、斡官、農監、都水、捜粟都尉が廃止され、郡国塩鉄官は郡国の所管となったようです)

均輸、平準は武帝時代の新設。
また塩官、鉄官は言うまでもなく専売の担当官で、各地に置かれていました。
(漢書地理志に、所在する県に「有塩官」「有鉄官」と記載されています)
斡官はどうも輸送の担当のようですね。
都内って、もしかして大内と関係あるのでしょうか。

111 :世界@名無史さん:04/05/09 12:10
わたしが基本的知識に欠けるくせに細かいところにこだわるのが原因でしょうか?
わたしは過去の受け売りだけで突込みどころ満載のレスを見ればおわかりのとおり、
専門教育など受をけてないただの官職マニアです。
恥も外聞もなく書き込んでますので、皆さんも何か書いていただければと思います。
居候の分際で言うことではないのですが。

都内
 ちくま版の漢書百官公卿表では、注に「天子の銭を蔵することを掌る」
 平凡社版の前漢職官表では「都の貯蔵米を司る」とあり、
 どちらにしても倉庫関係の官のようです。
 都は大に通じるようですから御説のとおり確かに大内と関係あるのかもしれません。
 二千石つまり九卿クラスの独立官庁から大司農の部下に降格されたというところでしょうか?

漢書食貨志で桑弘羊がなったとされる治粟都尉、これの正体も不明ですね。
捜粟都尉の誤りとも言われていますが。
同じく大司農中丞、大司農丞の誤りでしょうか?

前に書いていた秦代の五十石の話はここにありました。
「岩波講座世界歴史5帝国と支配」所載の「秦漢帝国と豪族(重近啓樹著)」
「韓非子」定法編に記す「商君の法」によれば、
斬首一級で爵一級を得たものは五十石の官秩の官吏に、
斬首二級で爵二級を得たものは百石の官吏に、各々就任する権利を持つそうです。

また秦では二百石以上の長吏は主に君主側近の家臣としての郎や庶子から充当されたとも言われています。
「戦国官僚制の一性格」(「新版中国古代の社会と国家」岩波書店:増淵龍夫著)参照

112 :世界@名無史さん:04/05/09 12:18
実は今のシリーズが終わったら
参加しようと列挙が終わるのを待っている。

でも、今の流れも資料になるんで
それはそれで良いんじゃないかな。
間に入りづらいけれど
意義のないことではないし。

113 :月舟宗誡 ◆udCC9cHvps :04/05/09 19:53
招かれざる客はここにいるぞ!

高度かつ専門的過ぎて突っ込みようがないから見てるだけだけど。
軍編成なんかを期待しつつ。

114 :世界@名無史さん:04/05/09 21:16
軍編成ですか。
「漢帝国と辺境社会」(籾山明著:中公新書)によると木簡から復元される編成は
校(軍尉)ー部(司馬)ー曲(候)ー官(五百将)ー隊(士吏)ー什(什長)ー伍(伍長)
とか都尉ー司馬ー千人ー五百−士吏ー騎士(辺郡の騎兵隊)などが復元されるようです。

学研歴史群像シリーズ33「項羽と劉邦」収録の「漢代の兵制」(重近啓樹著)では
幕府(将軍)ー部(校尉、司馬)ー曲(軍候、千人)ー屯(屯長)ー隊(隊率)ー什(什長)ー伍(伍長)

司馬の次に仮司馬、軍候の下に仮候が置かれることもあったようです。
各段階の兵力は本によっていろいろでよくわかりません。
秦代の屯は50人、2屯を百将が指揮、10屯+護衛兵50人を五百主が指揮、
二五百主が護衛兵100名で五百主二名を指揮というのが「商子」にあるようです。
なお屯長の配下に什長、伍長有り。

115 :八作 ◆144/FHQQQQ :04/05/09 21:49
難しすぎてROM

116 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/09 21:59
>>111
いや、私こそ専門家などではないですし、本来ならチェックすべき先行研究などについてフォローして頂いているので大変ありがたく思ってます。

都内については史記孝景本紀との整合性を考えるとそういった仮説をしたいですね。
治粟都尉については捜粟都尉の誤りで良さそうですが、
大司農中丞については、大司農丞が2人なので一方は「中丞」だったのかも(御史丞と中丞と同じように)。

五十石、また庶子の件についてもありがとう。ドラゴン氏の研究でしたか。

>>112
列挙は漢書百官表に基いているので、まだ続きます。
正直誰かがネタを持ってくるのを待っていたようなものなので、良かったらお考えの件について始めてもらってもいいんじゃないかと。
今やってるのは平行するなり、後に回すなりしてもいいですし。

>>113
別に専門的な事を書かずとも、ネタフリや感想でもよろしく。

>>114
軍制は、辺境なんかは居延漢簡なんかの研究がずいぶん蓄積されているので結構わかるようですね。
将軍の命令系統については続漢書百官表が詳しいでしょう。

117 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/09 22:22
>>115
リロードしてなかったです。
難しいというか、私が説明などを省きすぎているというのもあるでしょうか?


少府。
「山海池澤の税を掌り、以って共養に給す」。
漢では、農作物のいわゆる年貢や人頭税、資産税は大司農に入り国家財政に組み入れられ、
一方で「山海池澤の税」は少府に入り皇帝の個人資産となります。
少府はその皇帝の個人資産の管理と、皇帝の私生活的部分を担当します。
属官も色々ありすぎ。尚書(秘書)、太医(御典医)、楽府(楽団)、胞人(料理人)などや、宦官関係など。

118 :112:04/05/10 00:05
>116
今だと単なる質問になりそうだから
少しは自分で調べてみます。

119 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/10 00:52
>>118
質問もそこから話が広がればいいのですし、もし気が向いたらいつでもどうぞ。


少府、というか三独座。
後漢では尚書令、御史中丞、司隷校尉が三独座と呼ばれる要職だったわけですが、
後漢においてはこの内二つ、尚書令、御史中丞が少府の下についています。
しかしこれは続漢書の表現を借りると「文属」、書類上の所属というだけで現実には皇帝直属だったようです。

尚書は令(千石)と尚書僕射(六百石)、尚書六人(六百石)と、その下の侍郎、令史らによって構成されます。
しかしこの後漢における尚書は前漢成帝の時に改組された後のもので、それ以前の尚書は皇帝の文書保管係程度の、少なくとも枢要な職ではなかったようです。
後漢の尚書は直接的には前漢で武帝と宣帝により重用された中書謁者令、即ち中書令などの中書宦官に由来するのです。
成帝(というよりは大将軍王鳳か)は宣・元帝の時に実権を握っていたと思われる中書を解体し、その職務を新たに尚書に任せたのです。

120 :世界@名無史さん:04/05/10 20:14
少府
 大庭先生によると属官がやけに多いのが特徴、丞も6人存在。
 武帝の時期に水衡都尉が分離したと考えられています。
 ビザンツ帝国の国家財政長官と皇室財政長官が並立、日本の大蔵・内蔵などを思い浮か
べて興味深いです。
 家政機関の原初カオス的存在で、ここから太僕等様々な官職が分離していったの想定も
なされています。

尚書郎
 「中国政治制度の研究」(山本隆義著:同胞社)では漢初の段階でも王命の起草を司っ
た推定されていますが、後漢の制度で類推されたようで積極的根拠はないようです。
 また尚書は戦国期秦では丞相に、統一時代は少府に属したようで、本来の任務は上奏の王(皇帝)への取次と推定されています。
 漢初の尚書郎は大唐六典や漢旧儀等によると、四人で匈奴單于営部、羌夷吏民、戸口墾田(民曹)、財帛委輸(謁者曹?)等を分掌したようです。
 なお前漢では尚書令史から尚書郎への昇進ルートがあったが、光武帝の時に反対があっ
て改められたようです。(「九品官人の研究」宮崎市定著:中公文庫版有り)
 なお尚書令史は三公、大将軍等の掾属(比四百石〜比二百石、長官が自由任用できる属
官)とならんで郎を経ずして二百石以上の長吏と成りうる官でした。

農令等
 中公新書「漢帝国と辺境社会」(籾山明著)によると、居延農=部農、左農、右農等が
存在し、全体として張掖農都尉の配下にあったとされています。
 これらは塩鉄論園池編に言う北辺の田官とされています。
 部農の下には部農第四長等番号で呼ばれる属官が存在しています。
 また左農。右農が更に前後左右に分かれていました。
 部農第四長、左農右丞が居延漢簡に有り。
 おそらく農令・農長は上記各農の長官、農司馬は農都尉の副官でしょう。

121 :世界@名無史さん:04/05/10 20:15
軍制
 王莽の制度では大司馬5人、大将軍25、偏将軍125、裨将軍1250、校尉12500、司馬37500、
候112500、当百225000、士吏45万、士1350万と定められています。
 州牧を大将軍、郡の率正・連帥・大尹(旧太守)を偏将軍、属令・属長(旧郡都尉)を
裨将軍、県宰(旧県令)を校尉に任命したそうです。
 もちろん人数は非現実的ですが、序列的にはこんなものかと。
 推測ですが校尉=県令(2203県)とすると制度の1/5弱の人数で帳尻が合いそうです。
 校尉の指揮下の司馬以下士までが1146人と言うのはまあ現実的な数字ですし。
 ちなみに後漢の中央5営の校尉の配下は700から1200人程度です。
 おそらく実際は偏将軍と裨将軍が太守(125郡)と都尉ですからせいぜい1対2でここ
で調整がきき、その下は制度上の人数の1/5と言ったところではないでしょうか?
 それでも280万人以上ですが、パートタイムの兵まで含めれば有り無い数でもないかな
と思います。

 自分が知っている漢・三国の軍制について参考になりそうな本、真面目な研究書から三
国志マニア向けまでいろいろ。
 前出ですが大庭先生の「秦漢法制史の研究」、将軍、中郎将、校尉について詳しいです。
 同じく前出の濱口先生の「秦漢隋唐史の研究」、この時代の軍制一般の情報多数です。
 大庭先生の本で学生社の「親魏倭王」(将軍等について詳しい)&「木簡」(辺境の組
織など)は一般向けなので比較的安価で手に入れやすいと思います。
 十数年前に徳間文庫から出ていた長澤和俊先生の「敦煌」&「桜蘭王国」(晋代の辺境
屯田の組織についての記述あり)、なお元はちくま、角川が発行。
 学研「歴史群像グラフィック戦史シリーズ戦略戦術兵器事典1中国古代編」、通典、商子、尉繚子等に基づいて古代の軍編成の説明があります。
 新紀元社「三国志軍事ガイド」(篠田耕一著)、まあ題名のとおりの本です。
 徳間書店「三国志全人名辞典」(「中国の思想」刊行委員会編著)、巻末の主要関連官職
一覧に各種将軍についての解説があります。
 これも前出の中公新書「漢帝国と辺境社会」(籾山明著)、辺境の軍制いろいろ。
 平楽寺書店「六朝史研究政治社会編」(宮川尚志著)、第9章に南北朝期の中下級武官
(軍主、隊主等)についての考察があります。

122 :世界@名無史さん:04/05/10 20:16
【古代の軍の編成いろいろ】
 通典、後漢から三国時代又は三国時代よりややあと六朝期か?の2説があります。
 5人で列(伍長)、10人で火(火頭)、50人で隊(隊頭)、100人で官(官長)、200人で
曲(曲候)、400人で部(司馬)、800人で校(校尉)、1600人の長が裨将軍、3200人の長
が将軍。
 なお官以下の指揮官の名称は、参照した本に出典が明記されていなかったので不正確か
もしれません。
 商子は前記のとおり。
 尉繚子、戦国末の兵制のようです。
 歩兵五人で伍長、10人什長、50人で属長、100人で伯長(閭長)
 六韜、5騎に長、10騎に吏、100騎に率、200騎に将
 周礼、5人で伍(伍長、身分は下士)、25人で両(両司馬:中士)、100人で卒(卒長:
上士)、500人で旅(旅帥:下大夫)、2500人で師(師帥:中大夫)、12500人で軍(軍将:
卿)
 ちなみに、太平天国がこの編成を採用しています。

 三国志軍事ガイドでは曹操が制定したと言われる「歩戦令」をもとに、軍(将軍)ー部
(校尉、司馬)ー曲(部曲将、部曲督)ー隊(都伯)ー什(什長)ー伍(伍長)
 軍の下に部以外に独立部隊の牙門(牙門将)、騎(騎督)が所属することもあります。
 と言った軍制復元されています。

 また晋代はの牙門将の下に副牙門将・散牙門将、部曲将の下に副部曲将・散部曲将がいたようです。

123 :世界@名無史さん:04/05/10 20:38
なにか今回は流れから外れるような話が多くて申し訳ありません。

124 :月舟宗誡 ◆udCC9cHvps :04/05/11 00:06
軽い気持ちで書いたら、凄いことになってるね。
保存しとく。とくに>>114>>121-122、感謝する。

125 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/11 00:42
>>120
少府は皇帝の秘書からお遊び、符節から食事、武器から離宮まで、とにかく何でもあり状態ですからね。
そう言えば、漢書循吏伝の召信臣伝によると、少府属官の太官(湯官、導官と並ぶ皇帝の食い物係)では昼夜火をくべて暖め、温室野菜を作っていたらしいです。
しかも年間数千万銭を費やしていたとか。召信臣が廃止したんですけどね。

尚書と中尚書(中書)については色々な研究があったように記憶していますが、全てをチェックは出来ないので私なりに纏めて述べることになるでしょう。
あと、せっかくなので問題なければ領尚書事、録尚書事についても近いうちに触れます。

農都尉関係についてはより詳細なものをありがとう。

>>121,122
その王莽の軍制は地皇元年、王莽政権がやばくなってきた頃に出された詔でのものですね。
なんでも前後左右中の五大司馬を置いたりしたとか。
1/5だとすると、丁度大司馬が1名だとするとピッタリな数字だった事になりますね。

研究書等の紹介、大いに感謝します。これはかなり参考になるかと。

126 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/11 09:53
>>125補足。
廃止されたのは太官ではなく、太官での温室野菜栽培です。
後漢では湯官(名前から推測できるように酒など飲み物の係)は太官の中の一部局となり、導官(皇帝の食べる穀物を精米する)は大司農属官になったようですね。
なお、後漢では水衡都尉が廃止されて職は少府に編入され、一方で「山澤の税」自体が大司農(=国家財政)に移管されるなど、少府は大きな変更を経ています。

尚書と中書。
尚書は皇帝の文書係にして秘書で、詔を実際に起草するのはこの官の仕事です。
文書係というのは、尚書が詔などの保管もしていたらしいのです。(漢書潅夫伝)
「こういうのを書いといて」と皇帝に言われてそのとおり詔を作ったり、皇帝が一々全部考えるのがめんどくさい場合に代わりに考えたりするというものと言えるでしょう。
この官が次第に機能を強化され、宰相化(漢よりあとの話ですが)していくのは、皇帝が本来直接にするべき仕事が増えて、その分尚書が皇帝から仕事を任せられる部分も増えていったということでしょう。
一方、中書は漢においては中尚書、即ち宦官の尚書です。
宦官しか入れない禁中で皇帝が政務を行う場合に、尚書に代わる文書係、秘書、そして尚書と皇帝の間の文書のやり取りや伝令をしたのでしょう。
司馬遷がそうであったように、宮刑を受けた元官吏などで特に優秀な者などが就任したことと思います。
禁中に篭って政務を行うことが多ければ中書もまた活躍の場が多くなるのは当然の流れで、武帝後半期と宣帝、元帝の時代はそういった時代でした。

127 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/11 11:35
尚書と中書。
そんな中書にメスが入るのが元帝の後、成帝の時です。
彼は(というよりも大司馬大将軍王鳳というべき?)中書宦官として権力を振るった石顕を左遷、
同時に中書を廃止(中書謁者令を中謁者令と改称し、「中尚書」としての機能を無くした)し、
おそらくはそれまで中尚書が果たしていた機能(皇帝の側近、秘書)を尚書がそのまま引き継げるように尚書を強化したのでしょう。
それが漢書百官表に「成帝建始四年、更名中書謁者令為中謁者令、初置尚書、員五人、有四丞」という文の実態だというのが通説と記憶します。
(違っていたらどなたか訂正等お願いします)

では、「領(録)尚書事」と尚書、中書の関係はどういうものだったのでしょうか。
これは少なくとも私が学生だった頃は学会でもまだ微妙に論争していた気もしますが、
ここでは見た限りの研究を元に私の愚考を述べておきます。

「領(録)尚書事」、少なくとも前漢の「領尚書事」は、武帝死後に幼帝昭帝が即位した事から始まります。
霍光が「領尚書事」となり、上官桀、金日テイがその副になったと言います(漢書昭帝紀)。
その仕事は、漢書霍光伝に「(霍)光時休沐出、(上官)桀輙入代光決事」とあるように何かを決裁、決定するものです。
何を決定するかというと、霍光伝による上官桀、燕王旦、桑弘羊らの霍光排除の陰謀の中で、上官桀らは霍光の休みを見計らって、燕王の名による霍光を弾劾して燕王入朝を願う上書を上りました。
ということは、霍光が出勤していたらこの上書は上手くいかないという事です。
また、これはその子霍禹らの時代ですが、
「又故事諸上書者皆為二封、署其一曰副、領尚書者先発副封、所言不善、屏去不奏」(漢書魏相伝)
「時霍山自若領尚書、上(=宣帝)吏民得奏封事、不関尚書、群臣進見独往来、於是霍氏甚悪之」(漢書霍光伝)とあります。
これを見るに、領尚書(事)は「封事」以外の上奏文の副を皇帝より先に見て、「不善」な上奏をいわば握りつぶす事ができたのです。
先の霍光排除の陰謀の時、霍光が居てはこの領尚書事の権限で燕王名の上書が握りつぶされる恐れがあったので、霍光の居ない時を狙ったのでしょう。
そして、「封事」だけはそれを受けず、皇帝がその上奏文を最初に見ることが出来たと思われます。

続きます。

128 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/11 22:55
ダラダラと書いていてスミマセン。万が一興味持った方や意見等がある方がいたらよろしく。

続き。
領尚書事は上奏文のチェックをした、更には握りつぶすことが出来ました。
これこそが領尚書事本来の機能でしょう。
領尚書事が置かれたのは決裁権者が幼帝しかいない(臨朝称制する皇太后もいない)状態でした。
領尚書事は、この明らかに上奏文のチェックをするべき者が不在という危機的状況に対応するためだったのではないでしょうか。
つまり、皇帝の代わりに上奏文の内容を吟味したり意見を述べたりイチャモンつけたりするのが仕事、ということです。おそらく。
言い換えれば皇帝の代理人または後見人、あるいは摂政でしょうか。
(なお、前漢の領尚書事はほとんどが皇帝の外戚ですし、後漢の録尚書事(の一人)は太傅でした)

で、こういった機能は幼帝でなければ本来必要ないのでしょうが、
宣帝の時代にも領尚書事霍光に「関白」することとなった故事があったのと、
皇帝の政務の増大により上奏文のチェックを一部なりとも任せることに皇帝としてもメリットがあったために、
(真に秘密とすべき上奏は封事とすれば良いのだし)
それ以降は領(録)尚書事が常置のものとなったのでしょう。

尚書と領尚書事の関係に続く。

129 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/11 23:14
尚書と領尚書事の関係。
皇帝の秘書、側近である尚書と、上奏文の決裁を事実上皇帝に代わって行うに等しい領尚書事は、一旦切り離して考えるべきだと思います。
尚書の強化発展は皇帝の権力拡大と密接な関係にありますが、
領尚書事の誕生とその常置化は、むしろ皇帝の大権の一つである上奏文決裁を臣下に一部分であれ与えてしまう行為ですから、
皇帝にとっては諸刃の剣でしょう。

また、宣帝の時の中書の職務の一つとして、封事を領尚書事が見る前に取ってくる、というのがあります(漢書霍光伝。霍山の恨み言の中)。
これ自体はパシリみたいなものですが、中書宦官が皇帝に密着した秘書官的存在であったことが伺えます。
と同時に、領尚書事は何らかの制限がなければ皇帝の権限を侵す危険性を孕んでいたということでもあるでしょう。
(後漢において録尚書事が「参録尚書事」と太傅と太尉など複数で行われているのは分散して危険を避けているのではないでしょうか)

130 :世界@名無史さん:04/05/11 23:33
 大変興味深いのですが、領尚書についてはあまり突っ込めないので、尚書の分曹についてなど。
 後漢書の本文では常侍曹(主公卿事)、二千石曹(主郡国二千石事)、民曹(主凡吏上
書事)、客曹(主外国夷狄事)の四尚書が成帝時に置かれたとされています。
 しかし注釈によると三公曹(主断獄)で五曹あったとされています。
 通典は四曹+僕射で尚書五人との説のようです。
 このあたりの整合性をとろうとした研究もあるようですが良く覚えていません。
 ところでなんで断獄担当が三公曹って名称なんでしょうね?
 民曹も職掌と名称があっていない感じです。二千石曹は二千石が地方長官の別名だから
いいんでしょうけど。

 同じく後漢書(中華書局版)の注釈だと尚書郎は当初守尚書郎、その後年功で尚書郎、
尚書侍郎と昇進したようです。
 なお「中国政治制度の研究」(山本隆義著:同朋社)では、同じ漢書の注釈を引いての
守尚書郎中とされていますが、そうなっている本もあるのでしょうか?

 漢書にみる王莽の制度では、百石が庶士、三百石が下士、四百石が中士、五百石が命士、
六百石が元士、千石が下大夫、比二千石が中大夫、二千石が上大夫、中二千石が卿とあり
ます。
 なぜか二百石がなし、廃止か単なる脱漏か?

参考図書など
 同朋社出版「アジアの歴史と文化1中国史ー古代」X漢帝国の発展(執筆者冨谷至)
 一般向けの概説書で漢の官制について簡便に記されており、前漢の職官表があります。
 参考文献として大庭先生の「秦漢法制史の研究」などが上げられています。
 また参考文献としてあげられている本で、題名から見て興味深そうなものなど。
 森鹿三「東洋学研究 居延漢簡編」同朋社出版1975
 福井重雄「漢代官吏登用制度の研究」創文社1988
 永田英正「居延漢簡の研究」同朋社出版1989
 宇都宮清吉「中国古代中世史研究」創文社1977
 好並隆司「秦漢帝国史研究」未来社1978

131 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/12 00:28
>>130
尚書各曹についてはどうもよく分かりませんね。
思うに、続漢書本文、劉昭が注に引く漢旧儀や蔡質漢儀などは、それぞれ想定する時代が微妙に違うのかもしれません。
もちろん単純に記録に混乱があるだけかもしれませんが。

尚書郎が「守」から真になるというのは前に出た前漢の三輔等の「守」と同じですね。

王莽の時、既に五百石は廃止されている(成帝陽朔2年)ので、そっちもおかしいといえばおかしい。
もしかすると、「百石(以下)」と、以下(以上?)を意味としては補うべきなのかも。


132 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/12 00:42
尚書とか少府も興味深いですが次。

中尉。
京師(長安/洛陽)の巡回警備。属官が「候、司馬、千人」と、完全に軍事組織の体。
武帝太初元年より執金吾。
後漢ではかなりの部分を省いています。
かの光武帝劉秀もハァハァするほどの見目良い官だったようですね。
光禄勲は宮殿内、衛尉は宮殿の門、中尉は宮殿の外側を守るという訳です。

133 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/12 08:26
太常から執金吾までは中二千石。
次からは二千石の官です。

太子太傅、太子少傅。
その名のとおり、皇太子の傅役というやつです。
属官は門大夫、庶子、先馬(洗馬)、舎人その他。
皇帝の諸官庁を模したような構成になっています。
なお、続漢書百官志では太子太傅は中二千石で少傅は二千石で、属官は太子少傅に属し、太子太傅はスタンドアローン状態です。


134 :世界@名無史さん:04/05/12 20:02
 前述の「中国政治制度の研究」の注釈を見ていたら、「漢官儀巻上」に武帝が尚書4名
を置き、成帝が三公曹(主断獄事)を加えたと有るようです。
 なお武帝が置いたのは、常侍曹(主丞相御史事)、二千石曹(主刺史二千石事)、戸曹
主庶人上書事)、主客曹(主外国四夷事)の四尚書とされています。
 名称と職掌にやや異同が有りますね。

 「中国古代帝国の形成と構造」(西嶋定生著:東京大学出版会)を読んでいましたら「漢
書」恵帝即位の條に中郎・郎中・外郎に爵を与えた旨の記述があるようです。
 西嶋先生は、外郎は他に見えないが、蘇林の注によると散郎のことであるとされ、郎中
より官秩が低かったと推定されています。
 また中郎・郎中・外郎は、「史記」秦始皇帝本紀二世皇帝の條にある三郎に相当するものとも推定されています。
 なおちくま版の漢書の注では、三郎(中郎・郎中・外郎)の一つ散郎と同じ、職事官に
対し閑散な官位、とされています。
 それと同じ恵帝即位の條によると尚食・宦官は郎中に、謁者・執楯・執戟・武士等は外
郎に準じて爵位を与えられており、そこから何となく当時の序列がわかるのでは?
 まあ外郎=?散郎はどうも郎中より格下なのは間違いないようですが、正体はよく分か
らないと言うところですね。
 蛇足、この本にも秦の武功による五十石の吏への任官の話が載ってました。

 職掌はよく分からないのですが、王莽のころか後漢に尚書大夫と言う官があったようです。
残念ながらメモは残しているのですが、どこで見たものか思い出せないのですが。
 なにかいろいろ話を蒸し返してすいません。

135 :世界@名無史さん:04/05/12 20:03
中尉
 濱口先生の「秦漢隋唐史の研究」によると、本来は北軍つまり長安防衛軍司令官である
共に、他郡の郡尉に相当する内史の在郷兵を率いる官であったようです。
 つまり官名の意味は中央の尉ですね。
 また武帝親切の中塁校尉は、北軍の監察官との推定です。
 ちなみに南軍司令官の衛尉は、地方直轄郡(王国を含まない)から選抜された衛士を率いていました。
 なお南北の称は駐屯地の位置によったようです。
 また後漢になると制度の変更等で五校尉の兵を北軍と呼ぶようになります。

 武帝の時中尉を執金吾と改名、以前北軍の司令官であったものの、新設の三輔都尉が直
接郡兵を指揮することになります。
 後漢では郡兵の廃止にともない洛陽警備長官に変化しており、部下は糸是騎200騎、持戟5
20人。(漢官儀による)

 光武帝、夢は大きく、でも実行は堅実にと言った人物像でしょうか?
 ただし陰麗華との10歳の年齢差を考えると、ややロリコンの気あり?
 古代ローマなら正常(親子くらいの差はざら)だったんですけどね。
 平和な時代なら本当に執金吾になって陰麗華と結婚、そつなく任務をこなしすぎて列伝
さえ残らなかったりして。
 後任者あたりの列伝に比較としてちらっと名前が出てくるくらいかも。

 ところで光武帝は平帝の跡を継いだとの認識だったのでしょうか?
 また更始帝は王として祭られたのでしょうか?淮陽王がそれでしょうか?

136 :世界@名無史さん:04/05/12 23:20
中尉の配下で謎の官寺互令
本田済氏の前漢職官表では獄官
冨谷至氏の職官表では各官庁担当、意味不明です?
ちくま版漢書の注では治水官、これはあるいは次の都船令の説明との誤植かも?
見事にばらばらで訳わかりません。
都船令も各々治水官、水上警備、治水官、正体不明です。

王国の中尉
 前漢の王国には都尉がいたようです(木簡だったか印章だったかが出土していたかと)。
 まあ当初の王国は複数の郡からなっており、郡守=太守がいるのですから当然ですね。
 おそらく都尉は支郡の司令官で中尉は内史郡の司令官(中央軍司令官)兼王国軍曹司令官でしょう。
 その後の分割で王国が一郡になると、当然都尉は消滅し中尉が単独の司令官になったのでしょう。

137 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/13 00:35
>>135
そういえば南北軍の事がありました。
ところで中尉が北軍の司令官だという濱ちゃん説って、どのあたりが根拠でしたでしょうか。
申し訳ないことに忘れてしまいました。できれば誰か教えてください。

光武帝は、平和な時代なら列伝に載るかどうかアヤシイでしょうね。
また、光武帝は世代の関係から元帝を父世代としてそれを継ぐものとして処理され、成帝以降は傍流扱いされたようです。
後漢書張純伝に光武帝の時のその議論が載せられ、
元帝以上は「洛陽の」高祖廟、成帝以下は「長安の」高祖廟において祀るよう決められています。
後漢は光武帝以下の脳内では、
高祖〜元帝→光武帝 と継承されたことになったのです。

更始帝の祭祀は良く分かりませんが、子孫が列侯になっているので、
更始帝も列伝では特記されていないので同じ列侯格での祭祀だったんでしょうか。

138 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/13 00:47
>>136
寺互、都船、ともによく分かりませんね。
漢書注も、「如淳曰漢儀注有寺互都船獄令治水官也」とあるだけです。
どこまでが漢儀注なんでしょうか。
「漢儀注有寺互」と「都船獄令治水官也」で分ければ、都船(獄?)令は「治水官」ですが・・・。
(寺互については説明していない事に・・・)

王国内の郡都尉ですか。そういえば出土資料からは景帝以前から郡尉を「都尉」と読んでいた例があったとか。

139 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/13 08:29
将作少府。
「宮室を治めるを掌る」(漢書百官表)。宮殿などの建築、管理といったところでしょうか。
景帝中6年より将作大匠。「少府」では紛らわしかったのか?

・事。
皇后、皇太子の家を掌る。
皇太子の家ということでは、
率更令(続漢書によれば光禄勲のような職)
家令(同上大司農、少府)
僕長(同上太僕)
中盾長(中尉に似るか?)
衛率長(衛尉に似るか?)
廚厩長(続漢書「車馬を主どる」なので太僕?)
となっています。後漢では太子少傅の下に門大夫などと一緒に属していますが、前漢では別でした。

140 :世界@名無史さん:04/05/13 23:08
>元帝の跡を継いだ
 元帝の男系子孫は平帝をもって絶えていたわけですからいろいろ都合が良かった?
 宣帝の子孫の方はまだ居たようですが。
 王莽政権は簒奪者として否定するとして、王莽の元号は認めていたのでしょうか?
 それとも平帝の元始の年号が光武帝即位まで続いていたことにしたのでしょうか?

淮陽王
 全然根拠ではないのですが、角川の「新字源」の付録の中国文化史年表の新の欄に淮陽
王の項目があり、更始元年と一致していて、その次が後漢、光武帝、建武となっています。
 それでもしかして更始帝は淮陽王に追封され諸侯王の格式を持って葬られたのかなと思
っただけです。
 どうもこのあたりに粘着してすいません。

中尉が北軍司令官
 濱口先生の「秦漢随唐史の研究」第1部第5「前漢の南北軍に就いて」によると、武帝が
期門、羽林、七校尉等の特殊部隊を創設するまでは、中央で軍と言えるものは衛尉配下の
衛士部隊と中尉配下の部隊だけであった。
 そして衛尉配下の部隊が南軍と称されたことが諸説一致で確実な以上、残る北軍は中尉
の部隊しかあり得ないと言うことのようです。
 南北の称は衛尉の庁舎が長安西南の未央宮に有り、中尉の軍は北部に駐留していた為だとの推定です。
 その根拠としては、衛尉については、前漢百官公卿表「衛尉」の條の顔注に「漢旧儀云、
衛尉寺、在宮内」
 中尉については史記呂后本紀八年「周勃等が呂氏一族を誅する」の條、漢書第六十七胡
建伝「胡建が監軍御史を誅する」の條等をあげられています。
 なお期門、羽林、七校尉等の特殊部隊については続く同章及び第六「両漢の中央諸軍に
ついて」で考察されています。

141 :世界@名無史さん:04/05/13 23:10
史記に見る漢楚抗争期&漢初の官爵
 張蒼が任ぜられた計相→主計、財政担当大臣らしいのですがその後との繋がりが不明。
 韓信が任ぜられた治粟都尉、主計将校のようなものらしいですが、桑弘羊が任ぜられたものとの関係はどうでしょう?
 どこで見たか忘れましたが虎賁令、虎賁県の令と訳されていますが虎賁部隊が存在した
可能性はないでしょうか?
 王莽も元始五年宰衡の時に虎賁三百人を与えられていますね。
 職志、旗奉行らしいです。
 郎中騎将、同じ官であるように思われる騎郎将との関係は?改名でしょうか?
 特将、別将又は副官のたぐい?
 中謁者、取次役のうちでも親近の官でしょうか?
 符璽御史、御史大夫の配下、諸侯や将軍の任命時の割り符を扱うらしいです。後の尚符
璽郎中と関係があるのか?
 隊率、隊帥とも、一隊の長とされています。
 連尹、戦国楚の高官、弓矢を司るとも。
 車司馬、戦車隊長?
 騎将、騎長、騎千人将、右騎将など、まあ騎兵隊長のたぐいかと?

列伝に見る爵位の昇進?の実例
 国大夫=官大夫(第六級)→列大夫=公大夫(第七級)→上間又は上間爵=公乗(第八級)か?
 →五大夫(第九級)→卿→封(賢成君)封ずる意味か?封という爵か?→重封(増封の意味か?
 、重封と言う爵だとの解釈もあり)→列侯(臨武侯)
 武功をあげた列侯本人の官が郎中というのは少々不可解?

 七大夫=公大夫(第七級)?→五大夫(第九級)→執帛(楚の爵?)→執珪(楚の爵?)
 →爵・封(滕公)→列侯(昭平侯)
 これを見ると封は後の関内侯に相当するのかもしれません。

取り止めがないですね。申し訳ない。



142 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/14 00:29
>>140
元帝の後を継いだことにしたのは、光武帝が成帝と同世代に当たる、というのが一番の理由でしょう。
宗廟は原則世代ごとに並べているので、成帝以降と光武帝以降の関係が極めて怪しくなります。
あと別段王莽の元号などを否定するような動きは無かったように思いますが、知っている人居たら教えてください。
少なくとも元始がずっと続いていたことにしたりはしなかったと思いますが・・・。

資治通鑑では表題で更始帝を「淮陽王」として表記しているので、新字源はそれの引き写しなんじゃないかと邪推します。
更始帝がどんな礼で葬られたか、どうもハッキリ分からないですが、淮陽王としてなんですかね。
資治通鑑では(光武帝が与えた)最終的な爵位である淮陽王と称しただけではないでしょうか。
「更始帝」は諡や廟号ではないですし、何より彼は帝位を退いているので。

南北軍についてありがとう。
実際には史記、漢書ではイマイチ衛尉や中尉が南北軍の司令であったというのがピンとこないような気がしたもので。

>>141
漢初や楚の官は正直まるでわかりません。
「虎賁令」は調べたら史記絳侯周勃世家でした。なお漢書周勃伝では「襄賁令」です。
また漢書成帝紀注によると臣サンは漢初「中謁者令」で、武帝の時代に「中書謁者令」になり、成帝の時にまた「中謁者令」に戻った、と説明しています。
本当かどうかはともかく。

143 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/14 00:45
・事続き。
>>139に書いたのは皇太子の家。皇后のは別に官があります。
中長秋以下、おそらくほとんどが宦官でしょう。
その後、成帝鴻嘉3年に廃止されました。
おそらく皇后部門は後述の大長秋に併合され、皇太子部門は太子少傅に合わさったのでしょう。
また皇太后宮の管理として長信(長楽)・事というのもありましたが、景帝中6年に・事→少府に改称。
「長楽少府」などというようになりました。
なお、(太)皇太后宮には衛尉もありました。

144 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/14 08:22
将行。
漢書百官表本文にはどんな官かの説明が無い謎の官(?)。
注、応劭によれば「皇后卿」。皇太子の官属が太子太傅と・事に分かれていたように、
皇后の官属も将行と・事に分かれていたのでしょうか?
就任者は前漢では宦官、士人両方あったとのことですが、後漢では宦官のみ。
景帝中6年に大長秋に改称。
大長秋と・事に分かれているのは後に不合理と感じられたか、成帝鴻嘉3年に・事を廃止して皇后部門は大長秋が全て管轄するようになりました。

145 :世界@名無史さん:04/05/14 20:46
将行
 確かに謎?諸先生方もほとんど触れられていません。
 後漢書によると秦の官だそうですが。
 大長秋の前身と言っても、御史大夫→司空程度のつながりしかないかも?

秦の官について
 「岩波講座世界歴史3中華の形成と東方社会」において、
 秦簡資料をいち早く活用した秦史研究の大成として、林剣鳴の「秦史稿」「秦国発展史」、
 秦資料集成として馬非百「秦集史」中華書局が紹介されていました。
 こう言う本を読むと正史で正体不明な官の職掌などがわかるのかもしれません。

太子先馬、洗馬と改名
 後漢書本注には職は謁者のごとき、と言う一方で太子の前導威儀。
 漢官によると郎中から選抜したようです。
 改名の意味が不明、後世にはなぜか文学担当、どこでどうなったものやら。

太子中庶子・庶子・舎人各々六百・四百・二百石(後漢書)
 後漢書本注によると各々侍中・中郎・郎中の如し。

ところで諸侯の家臣として門大夫、庶子、行人、洗馬、家丞があり、太子のものと良く似ています。
まあ同じ家政職員だからでしょうか。

将軍について一つの疑問
 後漢書本注に見える将軍の属の従事中郎、職参謀議とされていますが、
本来はお目付け役として派遣されたのでしょうか。
 三国時代の参軍や宋の通判のように。
 どうして郎なんだろうなと考えいて思いついただけですけどね。

146 :世界@名無史さん:04/05/14 21:03
元帝の件、王莽の元号、淮陽王等回答ありがとうございます。
明の永楽帝は甥の元号を抹消しちゃいましたが、
このころはまだそこまで元号にこだわりがなかったのか?
光武帝が現実肯定主義だったのか?はてさて。

147 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/15 00:39
>>145
将行についてはどうなんでしょうね。そもそも由来が不明な感じ。
改称前の方が由来不明ってのはなかなか無いですよ。

秦官については、やはり文献資料が限られているので出土資料が鍵でしょうね。
なのでその辺詳しい人が来るのを祈ります。

先馬と洗馬ですが、この時代はサンズイの有無くらいははっきりいって変更の内に入らないかもしれません。
改名についてはそれほど問題になるようなことでもないかな、と思います。
また皇太子の官と列侯の官が同じということですが、これは確かにそうですね。同じ構成です。
列侯も皇太子も天子のコントロールの下で食い扶持貰っているという点で同じだって言う事でしょうか?

将軍の下の「郎」従事中郎ですが、なるほど、と思いました。
お目付け役まで期待したかどうかはともかく、あえて将軍に人事を一任するのではなくて中央からの派遣にした、というのはそれなりに意味があるのかも。

>>146
現実肯定というか、当時はまだそういった考え方が無かったのかも。
(武帝は後から元号を決めてますが、改元自体はしていたと思われますし。)
むしろこだわりが無いのではなく、元号を重くみていたからこそ軽々しく扱わなかったのかもしれませんしね。
元号抹消なんてのは五代にも見られた話でしたし、後漢末、西暦189年は改元の嵐で、最後には最初の元号に戻したりしてます。
しかし


148 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/15 00:44
しまった。最後の方は変えようとしてたら送信しちゃいました。
後ろ2行は無視。

元号ですが、後漢末には確かに元の元号に戻そうなんて話は出てますが、過ぎ去った元号を復活させようとまでしたかどうか。
元が改まるという事を不可逆的なものと感じなくなってくるというのは、天譴や祖宗の霊などを(本心では)恐れなくなってくるのと同じような気がしないでもないです。
この辺はあくまでも感想ですけど。

149 :世界@名無史さん:04/05/15 17:50
将行
 大修館書店の大漢和辞典によると
 @行列を取り締まる役目(韓非子 内儲説上)
 Aの方では漢書をひいて「皇后侍従長、後大長秋と改名」とか書いてありました。(文面は不正確)

字面からは@の方が理解しやすいのですが、直接関係が有るのかないか?
あったとしたらどう職務が変化したのでしょうか?

年号
 武帝が始めて元号を定めてからさほど時代がたっていないので、
まだ伝統が浅く余り深い意味がなかったのかなと単純に思ったのですが、
確かにおっしゃるとおり重大視したからこそ変えなかったと言う方が説得力ありますね。

150 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/16 00:08
>>149
将行ですが、その意味の1、「行列を取り締まる役目」ってのが元でしょうかね。
でも韓非子の方とか全く見てないし、はっきり言って何ともワカランです。

元号についてですが、漢では改元が先にあって区別するための元号という感じもしますね。
元号が立てられてからも、改元だけして新たな元号を立てていないというケースがありましたから。
(武帝の後元年。もしかすると光武帝の中元も同じかも)
とはいえ、少なくとも改元はそれなりに重い意味をもっていたと思うのです。暦を支配しているという事ですし。


典属国。
大鴻臚でも触れましたが、「属国」を管轄。「蛮夷降者を掌る」(漢書百官志)。
蛮夷には「降者」と「帰義」があり、管轄が違っていた、という事になるでしょうか。
成帝河平元年に大鴻臚に併合。

151 :世界@名無史さん:04/05/16 20:22
漢書によると典属国の管理下にあったらしい属国都尉、典属国廃止後は大鴻臚の管理下に移ったのでしょか?
大庭先生の復元された元康5年2月11日付の詔書は、太守から属国都尉あてに伝達されています。
すると少なくとも連絡網の上では太守の下にあったことになり、あるいは太守の監督下にあったのかもしれません。

改名マニア?王莽の官制改革
 大司農→義和→納言、大鴻臚→典楽、大理→作士、少府→共工、太常→秩宗、水衡都尉→予虞
 これに新設の大司馬司允、大司徒司直、大司空司若の三公の三司卿(位は孤卿)を加えて九卿。
 光禄勲→司中、太僕→太御、衛尉→太衛、執金吾→奮武、中尉(執金吾とだぶり、中塁
校尉との説あり)→軍正、これに新設の太贅官(乗輿・服御を担当、後武器も担当)を加
えて六監(位は上卿)。
 前漢の九卿クラスのうち上記枠組みから外れたのが宗正、大長秋、将作大匠、・事。
 宗正は秩宗に合併としても、大長秋、将作大匠、・事はどこに消えたんでしょうね?

流から外れますが古代の軍制について
 講談社「中国の歴史1原始から春秋戦国」によると、「管子」(管仲著とされるが、実
際は戦国から漢初のものらしい)に斉の三国五鄙の制というものがあるそうです。
 まず斉の国内を国都と郊外にわける。
 国都は士の郷15と商工業者の郷6、このうち士の郷を三分して5郷からなる国にわける。各国は国君と二人の卿が統率。
 なお、商工業者の郷は三分したか国君が掌握したのか不明?
 郊外は東西南北と国都周辺の五つの鄙にわけ、行政上は属と呼ばれ、全て国君が掌握。

 国(長官は元帥、5郷)=軍(軍の単位、10000人)、郷(郷良人、10連)=旅(2000人)
 連(連長、4里)=卒(200人)、里(里有司、10軌)=小戎(50人)、軌(軌長)=伍(5人)

 属(長官は大夫、10県=9万家)、県(県帥、3郷=9千家)、郷(郷帥、10卒=3千家)、卒(卒帥、10邑=300家)、邑(司官、30家)
 すると国都は士30000戸(10000戸×3国)、商工業者12000戸(2000戸×6郷)計42000戸
 郊外は農民45万戸(9万戸×5属)総計492000戸、1戸5人とすると人口246万人となります。

152 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/16 21:57
>>151
連絡手段を考えると、文書事務上は太守府から属国へ渡すしかないでしょうね。
わざわざ典属国から直接属国へ送付するのは不合理の極みですし。

王莽の改革ですが、この改革は実のところ前漢末期、成帝、哀帝の時代から続く一連の改革の流れの上にあると思います。
はっきりいってやり過ぎには違いないと思うのですが、王莽だけの思いつきなどではないのです。
で、細かい事を言うと大司馬司允、大司徒司直、大司空司若は新設とは言い難いでしょう。
大司徒(丞相)司直は武帝以来の官ですし、哀帝の改革によって三公にそれぞれ「司○」が付けられる体制になっています。
王莽の三司はその継承です。
確かに「中尉」は不思議ですね。中(塁校)尉ってのはナルホドという感じです。
・事はもう廃止されてますが、大長秋、将作大匠は思うに太贅官か共工あたりに合併されたというあたりじゃないかと思います。

その斉の三国五鄙の制というのも興味深いですね。
郡県制の原型みたいな部分がありそう。

153 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/16 22:33
水衡都尉。
武帝元鼎2年新設。上林苑を管轄・・・なんですが、それだけでは済まなそうです。
漢書食貨志によれば、水衡に塩鉄を司らせようとした、楊可の告ビンなどで上林苑の財物が多くなり、水衡に上林苑を管轄させようとした、との説明があるのです。
また、同じ頃に鋳銭を「上林三官」で独占することとしています。
どうもこの時代を読み解く鍵の一つは「上林」なのかもしれません。

鋳銭については、水衡新設の元鼎2年では、
まだ五銖銭の独占鋳造前のはずですが、塩鉄専売は始まっていたはずで、
水衡はまずその管理運営と絡んでいたのかもしれません。
また、上林苑は単なる庭ではなく、水戦の演習地になったともいう昆明池なども作られ(元狩3年)、ある意味では国家的なプロジェクトとして整備された側面もあったのかもしれません。

まとまらなくなってしまいましたが、とにかく水衡はこの時代に始まった鋳銭独占、塩鉄専売と密接な関係にあったようなのです。

154 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/16 22:51
鋳銭に関係する「上林三官」とは、おそらくは(史記平準書注集解より)水衡都尉の属官にある、「均輸」「鍾官」「辯銅」でしょう。
但し漢書百官表によると「鋳銭」(この名称の属官は無いので上記の三官のことか)は最初少府に属していたそうです。
ということは、上林三官は当初少府に置かれ、それから水衡都尉の所管に移されたということでしょうか。

なお、上林苑は長安の南西方面に広がり、先に挙げたように昆明池などがあります。
色々な物産を供給し、皇帝のために消費されるのです。

この皇帝の私的な財産を管轄する官(少府、水衡)に鋳銭と塩鉄が置かれたらしいというところが、鋳銭と塩鉄の持つ意味合いを示しているような気がしますね。
ただし塩鉄は後に大司農=国家財政に編入されますが。

155 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/17 08:18
水衡都尉は王莽の時にも予虞と名を変え、九卿の一つに数えられています。
しかし後漢になると姿を消しました。
これは、本来の職掌である上林苑がもはや皇帝の庭や離宮として機能しなくなったというのが大きいでしょうが、後漢において財政が大司農に一本化されたらしいこととも無縁ではないと思います。
なお、山田勝芳氏「貨幣の中国古代史」によると、後漢の鋳銭は郡で行われたといいます。鋳銭という水衡の機能は地方に委譲されたのです。

また、続漢書百官志では武帝が置いた水衡都尉は秩比二千石とされています。
あるいは、漢書に見える二千石というのはどこかの段階で秩が上がったあとの話なのかもしれませんね。

156 :世界@名無史さん:04/05/17 20:34
水衡都尉の本質については知識不足でとても語れませんので枝葉末節。
 上林令の下には8丞12尉有りと補佐官が非常に多いです、業務繁忙?
 なおこの場合の尉は大場先生によると単なる三等官の意味らしいです。
 史記&漢書の張釈之列伝によると上林苑には虎園(動物園?)があり上林尉の下役に虎園嗇夫がいたようです。
(前出の大場先生の著作より)

 水衡都尉配下のシュウ濯令、船官らしいのですが官船の管理あるいは製造を担当したのでしょうか?
 同じく六厩令、そう言う官名なのか六つの厩令なのか?
 ちくま版漢書百官史は後説のようですが、具体名として上げられているのが未央、騎馬、承華、大厩等、
太僕配下の諸厩と一致、または良く似た名前が多いです。(根拠は不明)
 あるいはそこから騎馬の提供を受けている出先的存在なのか?このあたり謎ですね。

 ところで水衡都尉ってどうして都尉なんでしょう?
 どうも漢代の官名はなぜ武官名なのか良くわかないものが多いです。
 単に武力を背景とした威圧による強制を意図しているだけなのでしょうか?


157 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/18 00:41
>>156
上林苑は皇帝の庭園ですので、それの管理人は一種の武官(だから都尉)なのでしょう。
丞、尉の多さは、単純に広さ故ではないでしょうか。

またその配下の輯濯令などの水、船に関係ありそうな官は、おそらくですが一つは鋳銭に関係する輸送(水運)、あとは昆明池などがあるのでそこに関与する(武帝の時に水戦の教練をしたように)のではないでしょうか。

「六厩令」はそういう官名でしょう。
「属官有上林・(この間6官)・六厩、辯銅九官令丞」と全部で9官属列挙する一つが「六厩」ですから。
「六つの厩令」だったら14官になってしまいます。
「六厩」は太僕の管轄でもあるのですが、これは太僕が管理する軍馬や公用の馬と、水衡の六厩令が管理する皇帝が私用する馬と、両方を同じ六つの厩舎で育てていたということでしょうか。


158 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/18 08:22
六厩ですが、考え直してみるとやっぱり六つの厩舎ごとに別に令がいるかもしれないなあ、と思いました。
太僕では別に令長がいたようですし。


内史。
京師、すなわち長安を治める官です。やることは基本的には郡太守と同じです。
太守と言わないのは、内史の管轄が郡県を置く前の秦の領域、直轄地であったということではないでしょうか。
郡は被征服地であり、内史は征服した側の本拠地であるとも言えるかもしれません。

内史は漢書百官表によれば景帝2年に左右に分かれたといいますが、漢書地理志では武帝建元6年に左右に分かれたとしています。
百官表(下)の表では、景帝の時の左右内史は景帝元年の「左内史チョウ錯」のみであとは武帝建元4年の右内史鄭当時まで「内史」です。
これを見ると、左右へ分かれたのは武帝の時と考えた方が良さそうに思えます。

159 :世界@名無史さん:04/05/18 20:23
内史
 さてどうして首都近郊の長官が内史と称されたのでしょう?
 漢では王国の首都近郊の長官も、帝都近郊の長官と同じ内史です。
 他に内史と言えば治粟内史。
 内史とは字面から言うと秘書的な意味でしょうか?
 直轄地の管理を秘書に任せた?
 治粟内史の方はそこから財政担当官が分離したのか?
 なぜか石田三成を思い出したりして。
 また王国の方の内史は国の民を治めることを司ることが職掌とありますね。

なお漢書では内史は周の官で秦がそれを受け、治粟内史は秦の官とあります。
周の官を受けたと言うことですが、周礼では記録官とされていますが、どこまで信用していいものやら。
そもそも実際にあったのやら、なにをやっていたものやらよくわからないのが実際のところでしょう。

話は変わって王莽は三輔を六尉郡に分け各々大夫を置いています。
京尉、師尉、よく(立+羽)尉、光尉、扶尉、列尉の6郡です。

160 :世界@名無史さん:04/05/18 20:32
なにかごちゃごちゃと書きましたが、改めて読み返すとなんだかなにが言いたいのか不明確。
おかしなものを書いて申し訳ないです。
つまり言いたいことは、内史がどうして京師長官なんだろうという疑問だけですね。

161 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/18 22:40
>>159
あくまで、これは私の妄想気味の推測ですが・・・。
内史について、「首都近郊の長官」と考えると由来がわかりにくいのではないかと思うのです。
ではどう考えるかというと、「拡大前の秦全体の行政官の一人」というところではないでしょうか。
内史の「史」はおそらく「御史」の「史」と淵源は同じじゃないかと思います。
領土拡大前の秦の国主にとって、後の三輔とは領土全体。
で、その領土は国主が治めますが、国主は民政部分を国主の側近(「史」)の一人に任せたのではないでしょうか。
これが「内史」。そして、農政をさらに分離したのが「治粟内史」。
(側近・秘書でありつづけたのが「御史」)
こういう成り立ちと考えられないでしょうか。
余計に分かりにくくしてしまったかもしれませんが・・・。

162 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/19 00:29
主爵中尉。
三輔より先にこちらを紹介。「列侯を掌る」(漢書百官表)とあり、
どうやら後に大鴻臚管轄となる列侯は最初は主爵中尉所管だったようです。
また景帝中6年に主爵都尉に改称。
そこで終わりなら「尉」が付くことくらいしか謎は無いんですが、問題は、武帝太初元年に右扶風として三輔の一つとなる点です。
何故、列侯を掌る官が内史の一つになるのでしょうか?
(列侯についてはおそらくこの改組と同時に大鴻臚に移管されたのでしょう)


163 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/19 00:52
三輔。
太初元年の改組で、左右内史だったものが三分され、京兆尹、左馮翊、右扶風の三輔となりました。
漢書百官表によれば一応こういう変遷だそうです。
右内史 →京兆尹
左内史 →左馮翊
主爵都尉→右扶風

一方、漢書地理志によると、
京兆尹は
塞国(項羽が封じた)→渭南郡(高帝2年)→内史(高帝9年)→右内史(建元6年)→京兆尹(太初元年)
左馮翊は
塞国(項羽が封じた)→河上郡(高帝2年)→内史(高帝9年)→左内史(建元6年)→左馮翊(太初元年)
右扶風は
雍国(項羽が封じた)→中地郡(高帝2年)→内史(高帝9年)→右内史(建元6年)→右扶風(太初元年)
という変遷をそれぞれたどっています。
ここには主爵都尉は全く言及されず、主爵都尉は太初元年より前は内史の長官ではなかったことが分かります。
主爵は、太初になって急に治民官に組み入れられたのでしょうか。
そうだとすると、ほとんど別の官に変わってしまったのではないかとも思うのですが、なんで主爵→右扶風という関係が記載されるのでしょうか?
わかりません。
また、漢初は内史が郡だったというのも少々興味深いですね。

164 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/19 08:27
三輔。
もう一つ分からないのが、内史における都尉です。
漢書百官表、主爵中尉の条には元鼎4年に三輔都尉を置いたとあるのですが、
これは地理志によると左輔都尉(左馮翊)、右輔都尉(右扶風)で、
京兆尹は漢書宣帝紀、「京輔都尉(趙)広漢」の注によれば京輔都尉がそれにあたるようです。
しかし、元鼎4年にはまだ三輔は成立していなかったのでこの時に「三輔都尉」というのも不思議ですし、
もう一つ、百官表によると中尉の属官に「左右京輔都尉」があるのですが、これと京輔都尉の関係が不明です。
そして、三輔都尉が置かれる以前、内史に郡における都尉相当の官はあったのでしょうか?

これらについて一応推測してみます。
諸侯王国においては中尉が都尉相当ですので、漢の内史においても中尉、もっと言えば左右京輔都尉が内史全体にとっての都尉に相当したのでしょう。
これが元鼎4年まで。
で、元鼎4年に中尉所管の左右京輔都尉を、左右内史所管の左輔・右輔都尉に再編。
ここで一旦中尉属官の左右京輔都尉は廃止されたかもしれません。
そして太初元年、内史が三分されたと同時に左輔・右輔・京輔都尉と対応する都尉が置かれ、名称上は「京輔都尉」が復活した。
こういった変遷と考えたのですがどうでしょう。
漢書、続漢書の中尉・執金吾の条の左右京輔都尉の説明とは少々食い違うのですが・・・。

165 :世界@名無史さん:04/05/19 19:59
主爵中尉→主爵都尉→右扶風
 大庭先生は「公家と武家」思文閣出版所載の「漢代の貴族」において、高祖の功臣であ
った列侯の多くが絶えて列侯に関する職務が減少したことが、職掌変更の原因と推定され
ています。
 ところで中尉から都尉への名称変更も意味深です。
 本来爵は武功により与えられるものだったようですから、爵位関係事務が中央軍司令官
である中尉の職務の一部だったとしても不思議ではないです。
(軍最高長官の太尉でも良いのでしょうが、業務繁忙の故か、権力の集中を嫌ったのか?)
 そして業務過多につき中尉から別れたのであれば、主爵中尉とは納得のいく官名ですね。
 それが都尉に変わったことの意味はなんなのでしょう?
 このころの都尉には郡都尉、農都尉、関都尉、属国都尉、騎都尉、奉車都尉、フ(馬+付)馬都尉、
水衡都尉、捜粟都尉、治粟都尉(捜粟都尉の誤りとも)等があります。
 結構任務もばらばらで単に比二千石程度の武官の称として使っているようにも思われます。
 そうであれば、逆に中尉の称を嫌って(特別な意味を持つことを嫌った)の為の改名か
もしれませんね。
 それにしても主爵都尉から右扶風、本当に両者に関係があったことを疑いたくなるほど
ダイナミックな職務変更ですね。
 それで諸侯のことは以後大鴻臚が担当、以後はお客様扱い?

三輔都尉
 ちくま版漢書の「元鼎4年改めて三輔都尉を置く」とあり、三輔都尉の注に原文二輔都尉、三輔都尉の誤りかとあります。
 そのことからふと思いついたのですが、もしかすると当初は左右の二輔都尉(又は左右京輔都尉)であり、
三輔成立後に京輔都尉が新設されて、三輔都尉になった可能性はないでしょうか。
 二輔都尉段階では中尉の属、三輔成立後は各々三輔の属(軍事的には以前執金吾の属か?)に変わった。
 つまり左右輔都尉(又は左右京輔都尉)は各々左右内史の兵を率いていたと言う考えです。
 まああくまで脳内妄想で、なにも根拠はないんですけどね。

166 :世界@名無史さん:04/05/19 20:26
先ほどの書き込みはなにか意味が通ってないような気がして、もう一度考えを整理してみます。
 内史の軍はもともと中尉が指揮していた。内史と中尉には明確な統属関係はない。
 内史が左右に分かれたのに対応して左右京輔都尉が置かれたが、その所属は中尉であった。
 三輔の成立に伴い左右京輔都尉が京輔都尉、左右輔都尉に再編された。
 この際三輔都尉と三輔との間に統属関係があったかどうかは不明。
 漢書では三輔都尉は三輔の項目に書かれてはいるが、三輔と都尉との関係は明記されていない。
 なお郡尉=郡都尉は郡守=郡太守を補佐することが明記されている。
 あるいは三輔は通常の太守とことなり軍権がなかった可能性もあるのかもしれません?
 まあその可能性は低いでしょうが。


167 :世界@名無史さん:04/05/19 23:09
もう一度考えを整理し直してみました。
 史記孝景本紀、景帝の2年(前155年)大内を左右に分ける。
 漢書百官公卿表、景帝の2年内史を左右に分ける。
 漢書地理志、武帝の建元6年(前135年)内史を左右に分ける。
 この三つの記事の整合性をとると、景帝の2年に左右に分けられたのは大内、建元6年
に分割されたのは内史と言うことでしょうか?

 また漢書百官公卿表、左右京輔都尉の尉・丞・兵卒は中尉に所属。
 同、武帝の元鼎4年(前113年)に改めて二輔都尉(三輔都尉か?)を置く。
 同、武帝の太初元年(前104年)右内史を京兆尹、左内史を左馮翊に改める。
 同、同年、主爵都尉を右扶風と改め、内史の所轄する西方の地を治めた。左馮翊・京兆
尹とともに三輔を形成し各二丞有り。
 漢書地理志、京兆尹は前代秦の内史、高祖元年(前206年)塞国に属し、2年渭南郡
に改める。9年再び内史、武帝の建元6年(前135年)分割して右内史とし、太初元年
京兆尹に改名。

それでそのあたりをまとてめてみたのが下記のとおりです。
 当初一応制度が固まって以降は内史が首都圏の民政、中尉が軍政を担当していた。
 最初期の塞国だの渭南郡だのころは不明だが、高祖9年以降はその体制と推定。
 武帝の建元6年(前135年)に、内史を左右に分ける。
 この時中尉の配下に左右京輔都尉を置き、各々左右内史の軍政を管轄したと推定。
 更に中尉がその上から両都尉を統括したものと推定。
 武帝の元鼎4年(前113年)左右京輔都尉を左右輔都尉に改めると共に、左右内史の
配下に移管したと推定。
 武帝の太初元年(前104年)内史が三輔に再編成されたとき、それに対応して右輔都
尉を京輔都尉と右輔都尉に分割し三輔都尉になったと推定。

 あるいは元鼎4年都尉のみ先行して三分したものでしょうか?
 つまり、右内史配下の部都尉として京輔、右輔の二都尉が置かれた可能性もあり。

168 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/20 00:07
>>165‐167
いやあ、ホントになんだかかんがらがってきますよね、三輔と都尉。
主爵については、確かに武功と爵の密接な関係を考えればその「主爵」と「中尉(都尉)」という組み合わせは納得できます。
しかしやっぱりこれがどうして右扶風になるのか分かりません。
主爵都尉を廃止して空いた元主爵庁舎を右扶風の庁舎にしたとか、その程度かと思ってしまいます。

あと漢書百官表の主爵都尉の条にある「三輔都尉」ですが、
これ、実は本によって異同がある箇所でして、「二輔」となっているのと「三輔」となっているのとがあります。
漢書補注によれば銭大昭は「三輔」説(京輔と左右輔で三輔だ)、対して王先謙は「二輔」説(京輔は中尉属官にでてる)なのです。
私ははっきり言ってどっちを取ればいいのか判断しかねます。
「二輔」だとすると、左右輔は左右内史→左馮翊・右扶風の属で京輔だけ中尉→執金吾の属だ、ということになると思うのですが・・・。
「三輔」ならそれはそれでツジツマが・・・。

167でおっしゃるように、
最初は中尉属官の京輔都尉、内史分割と前後して京輔都尉も左右に分け、三分の時にそれに合わせて京輔都尉を置いた、というところでしょうか。

合理的な解釈が正しいとも限らないですが、ツジツマ合わせとしてはこんな感じでしょうか。

169 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/20 00:29
で、漢書百官表によれば二千石の官は以上。(太守は後出)


護軍都尉。
秦官とあるので漢書によると秦からあった事になります。
(陳平がなった護軍中尉がそれかもしれません)
武帝元狩4年に大司馬(将軍)に属するようになりました。
(なおこの年は大将軍衛青、驃騎将軍霍去病に大司馬の号が加えられた年です)

そもそも何をする官なのか、というのが問題ですが、
その名前や、陳平の事績などに見える「護軍」の意味合いなどから考えると、
軍監のような感じじゃないかと思います。

なお、護軍都尉は先に挙げた丞相の属官、丞相司直と並ぶ官という面もあったようです。
前漢末の三公制の元では司直、護軍、司隷が並びますので。
詳しく言うと、三公制を最初に施行した成帝綏和元年に、三公の大司馬の属官として丞相の属官司直と並べられ、
三公制を再開する直前の哀帝元寿元年には「司寇」と改称、更に施行直後の平帝元始元年には「護軍」とまた改称しています。
司直、司隷が共に監察弾劾の官であったことを考えると、護軍(司寇)も軍を対象とした同種の官と推測できるのではないでしょうか。

170 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/20 08:31
司隷校尉。
武帝征和4年の新設。
「巫蠱を捕らえ、大姦猾を督す」(漢書百官表)ためのものであったとされます。

背景として、漢書武帝紀によれば征和元年に「巫蠱起こる」とあり、翌年には巫蠱がらみで時の丞相公孫賀が獄死。
続いて公主などの巫蠱も発覚、更に皇太子が巫蠱の嫌疑をかけられるに及んで皇太子の反乱が勃発しました。
また、その戻太子の乱を鎮圧した丞相劉屈釐もまた巫蠱で要斬されています。
巫蠱とは対象に危害を加えるための呪術であり、人形を土に埋めるなどのやりかたがあったようです。
(呪いのわら人形みたいなものでしょうか)
漢書戻太子伝によれば武帝は周囲がみな巫蠱、呪詛をしているとして特にこの件を厳しく追及させたそうで、皇太子が追い詰められて反乱したのもそのせいのようです。
しかしながら土中から発見された人形が誰によるものかなどを判断するのは困難なはずで、後には武帝も「巫蠱の事多く信じられず」と気付いたようです。
要するに、すべてではないにせよ騙りや自作自演の疑いが濃厚、ということです。

話を戻すと、司隷校尉は皇太子の反乱後、おそらくはまだ巫蠱の追及が厳しかった時期の新設です。
(漢書劉屈釐伝によると、征和3年に巫蠱取り調べが厳しかったとされているし、漢書車千秋伝でも車千秋が丞相になった征和4年以降にも武帝が巫蠱を厳しく追及、摘発させていたことがわかる)
巫蠱の取調べ、更に場合によっては断罪まで行い得る存在として、司隷校尉には「節」と1200人もの奴隷(徒)が与えられました。
皇太子のように、追い詰められた容疑者が暴発することへの対処の意味合いもあったでしょう。

171 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/20 22:44
司隷校尉つづき。
司隷校尉は漢書百官表によれば、「後其の兵を罷める」とあるので、
どこかの段階で1200人の兵(奴)は撤廃されたと思われます。何時か分かりませんけど。
そして、「三輔、三河、弘農」を監察するようになった、といいます。
この「三輔、三河、弘農」とは、漢書地理志によれば部刺史の州に属さない郡であり、
また同時に(前)漢にとっては中枢部とでも言うべき郡でした。
(劉氏は三河の太守になれないなど、普通の郡とは少々違う扱いだったらしいです。
だからこそ部刺史の範囲から外れたのかもしれませんが)

実際には司隷校尉は「百官以下及び京師近郡の法を犯せし者を察挙するを掌る」(続漢書百官志)、全官僚を対象とする監察官として機能しました。
漢書蓋寛饒伝、諸葛豊伝には「刺挙避ける所無し」といった表現がありますし、
更に漢書匡衡伝には司隷校尉王尊が丞相匡衡を劾奏したことが記されています。
位人臣を極めた存在である丞相さえも、司隷校尉の弾劾し得る対象であったのです。

172 :世界@名無史さん:04/05/20 23:20
護軍あれこれ
 武帝の元光2年、御史大夫韓安国を護軍将軍に任命し匈奴の誘致襲撃を計画。
 この時の護軍将軍は他の将軍との関係を考えても総司令官、少なくと監督的立場にはあ
ったと推定されます。
 この場合は将軍自らが護軍の任に当たっていますが、大司馬配下の護軍都尉の場合は大
司馬に代わってその権限を行使するものなのでしょう。
 晋書や宋書の記述を見ると、曹操が政権を握った段階で護軍が置かれ、後に魏の時代に
なってから護軍将軍・中護軍(護軍将軍と職務は同じで任官者が資格不足)と改められた
ようです。
 この時の護軍将軍・中護軍は主武官選とあり、人事担当のようです。

 他に地方駐留の護軍や安夷護軍・撫夷護軍(帰服のてい(低ーイ)族を管理)もあり、
蜀には前後左右中護軍、呉には左右中護軍があります。(どちらも正確な職掌は不明)
(ちくま版「正史三国志」巻末の三国官職表による)

 また蜀では、蜀史李厳伝注に引く「諸葛亮公文上尚書」によると、都護、軍師、監軍、
領軍、護軍、典軍、参軍の序列があったようです。
(歴史読本93年4月号所載の「三国時代の軍事制度」石井仁)
 その後晋の時一度省かれて、再置後は禁軍司令官に変わっています。
 また、スレ違いになりますが、唐の左右神策軍には各々護軍中尉・中護軍各1名が置かれ、
これは先祖帰りして軍の監察官のようです。(新旧唐書)

司隷校尉
 補佐官がなぜか従事、掾でもいいと思うのですが、あえて別にしたところになにかしら
意味があるのでしょうか?
 また比二千石の高官なのになぜか次官がいません。漢書に次官が明記されていないのは
護軍都尉も同じですが、こちらは後代には長史・司馬がいます。

将作大匠の行方
 漢書王莽伝下に、地皇3年正月に廟を繕治したとして、都匠仇延を邯淡里附城(関内侯
に相当)に封じたとの記事があります。
 あるいはこれが将作大匠の後身かもしれません。(ちくま版漢書の訳者小竹武夫氏の説)

173 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/21 08:30
>>172
>総司令官、少なくと監督的立場にはあった
そうなのでしょうね。護軍は、まさに監督的立場だったのだと思います。
というか、そういう用語、用法なのでしょう。
三国頃の護軍も、監察、監督的な立場だったかもしれません。
(もっとも、刺史がそうであるように監察から指揮官へと変質していたのかもしれませんが)

都匠は王莽伝、地皇3年正月ですね。知りませんでした。ありがとう。
顔師古によれば「都匠は大匠なり」とありますし、これが将作大匠の後身だという可能性は高そうですね。

司隷校尉。
確かに漢書百官表によれば他の校尉(城門校尉とか)には丞、司馬が付きますが、護軍と司隷には明記されてません。
あくまでも推定ですが、司隷の場合は兵を撤廃された時点でそういった副官が廃され、刺史と同じような構成になったのかもしれません。
護軍の方は良く分かりませんが・・・。

174 :世界@名無史さん:04/05/21 21:06
太と大、少と小
 「岩波講座世界歴史5帝国と支配」所載の重近啓樹著「秦漢帝国と豪族」に
 尹湾漢墓簡トク(讀がごんべんでなく片になっている字)に記された成帝期の東海郡の吏員表が掲載されています。
 その中で太守は大(太)守、属官の少府嗇夫が小(少)府嗇夫と記されており、
 おそらく簡トクの原文は大守、小府となっていたと思われます。
 確かに前に言われていたように厳密な書き分けはなかったのかもしれません。

 同じ表からもう一点、東海郡の都尉の官秩は真二千石になっています。
 ちなみに太守のほうは不明です。
 こはあるいは当時の都尉個人の資格かとも思ったのですが、定員表らしいので定制のようです。
 一般に郡都尉は比二千石と認識されていますが、実際には例外もあったのでしょうか?

 参考文献にあがっていた西川利文「漢代における郡県の構造についてー尹湾漢墓簡トクを手がかりとして」
 仏教大学文学部「文学部論集」81 1997年あたりを読むとその疑問が解けるのでしょうか?

 もう一つ、当時の東海郡太守府の属吏の定員は25名ですが実際は93名いたようです。

次官がいない
 あるいは監察官系は独立で任務を遂行する官であり、次官は置かれなかったのかもしれません。
 あとは侍御史とか部刺史とか、この二者には統率者としての御史中丞はいますが。

175 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/21 22:37
>>174
尹湾漢墓ですか。その吏員表は講義か何かで見た憶えがありますね。
中身はもう忘れましたが。
「大」と「太」あたりに限らず、この時代の字は音、意味、形が似ているのを結構通用していたようです。
基準とかそういうのは分からないですけど、印象としては・・・。

東海郡都尉の官秩ですが、実際は郡の大小か何かで変わっていたと見るべきでしょうか。
よく分からないですけど。
尹湾漢墓関係を本気で勉強するんだった・・・。

司隷などの次官ですが、監察官というくくりというのは確かに考えられなくもないかも。
独立した官庁などを構える存在ではない、という感じ?

176 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/22 11:31
司隷校尉。
司隷校尉は武帝死後に巫蠱に限らない常設の監察官として機能したように見受けられますが、
他の監察官などと大きく違うのが、「節」の存在でした。
天子の代理人の証とでもいうべきもので、「節」の下において出す命令は「詔」であったという事が知られています。
(漢書諸葛豊伝、侍中許章に命令した件)
司隷校尉には「天子の使者、代理人」とでもいうべき由来と、おそらくはそこから天子への直属という意識があったのではないかと想像されます。
この「節」は元帝の時に(上述の諸葛豊の時)に回収されるのですが、天子の直属だという意識や実態はその後も司隷校尉の側にも、官界全体にも残ったのではないでしょうか。

なぜここで天子の直属というのを強調するかというと、当時漢には丞相司直という天子の直属でない監察官が居たからです。
そして、司直と司隷はほぼ対等のライバル関係だったらしく、朝会の際には中二千石の前にいて丞相・御史大夫を迎えるという形だったそうです。
(漢書テキ方進伝。なお、位は司隷は司直の下だったという。テキ方進は司直として司隷2名を弾劾罷免しており、両者の激しい争いが見て取れる)

宰相の下に付く監察官と天子直属の監察官がほぼ対等で張り合ったりする(しかも宰相の側が勝利している)というあたりに、
当時の権力構造の一端のようなものが見えるような気もします。
気のせいかもしれませんけど。

177 :世界@名無史さん:04/05/22 20:18
ネタがないので、流れを無視して武功爵の話など。
 漢書食貨志にみる武功爵は、第5級官首、第7級千夫、第8級楽卿ですが、平凡社東洋
文庫の「漢書食貨・地理・溝洫志」では下記のとおり11級まであげられています。
 根拠が書かれていないのですが、なんでしょう?
 下から第1級造士、第2級閑輿衛、第3級良士、第4級元戎、第5級官首(見習官に任命)、
第6級秉鐸、第7級千夫(第9爵の五大夫に準じて正式任用)、第8級楽卿(ここまで購入可)、
第9級執戎、第10級政戻庶長、第11級軍衛
 なお実際は第9級以上も購入できたらしいです。
 また12級以上も有ったのではないかと言う可能性も有るようです。

 爵位と似ている名前(造士、良士、政戻庶長)もあれば似ていない名前もありますね。

>当時の権力構造の一端
 それを嫌って内廷に権力を集中させようとしたのでしょうか?

178 :怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/22 21:34
>>177
私がやってる事についてなら、どんどん流れを無視して結構です。
武功爵の全容は、漢書食貨志の注、臣サンが引く「茂陵中書」によるものです。
この「茂陵中書」(茂陵書とも)は官職などが記されたものらしいんですが、私はそれくらいしかわかりません。
十一等以上あるかも、とは顔師古の指摘ですね。
武功爵自体ははっきりいって詳しくないですけど、なんでわざわざ二十等爵と別のものを作るのか意図が理解できません。

>それを嫌って内廷に権力を集中させようとしたのでしょうか?
私の理解ではそういう感じです。
あえて付け足せば、皇帝がより独裁的に支配する体制の構築にとって、丞相は強すぎ、皇帝の発言力はまだまだ弱いのです。
司隷校尉をはじめとする官の変遷は、少しずつでも皇帝の元に権力を集中し、政務を行う機能を強化するための動きだと言えるのではないでしょうか。

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