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欽明天皇と周辺環境

1 :日本@名無史さん:04/05/01 03:41
継体天皇論や蘇我馬子論、聖徳太子論などの登場人物でありながら、
なぜかスレッドが見当たらない第29代欽明天皇。
継体天皇の子にして仁賢天皇の孫といわれるこの帝と、その周辺人物
や環境をトロ〜ンと語りまっしょい。
(なお、規約は守って下さい)



2 :日本@名無史さん:04/05/01 03:44
カキコよろしく〜。

3 :日本@名無史さん:04/05/01 14:00
旅行で欽明天皇行って見たよ。

蚊がすごかった。

4 :日本@名無史さん:04/05/01 19:36
>>4
スレタイが気に入らない。

5 :日本@名無史さん:04/05/01 20:40
>>4
ごめんなさい。
スレタイ作り直してみたけれど、うぷできなかったす。
(【仏教伝来】欽明天皇【第29代】とか、いろいろ考えたけれど。)

ところで本題ですが、この人の和風謚号って意味深よね。

6 :日本@名無史さん:04/05/01 22:17
欽明天皇は安*天皇を殺害した可能性ありますか?

7 :日本@名無史さん:04/05/01 22:19
壱の肛門に付着しせしめる蟯虫一同をば代表仕りそれがしが書き込みをばさせて頂きたく御座候。
この度、主君がこのような糞すれつどをば立てし候故皆々様にご迷惑をおかけ致しまし候段、
この場を御借り申し候にて深くお詫びをば申し上げ候也。
壱の肛門で生活するこの身なれば、大変主君の身の上を心配申し候なれど、
この弐ちゃんねるという瓦版を知り申し候以来、主君も少しく聡明に也申し候。
「本日幕府登用板でね、台所方がさあ…」 と、
とても楽しそうに蟯虫であるそれがし共に話しかけて頂きまして御座候。
おかげさまで主君の便秘気味の体質も改善され申し候故、毎日新鮮な三度に
ありつける次第で御座候。漸く幕府登用活動も開始した様にて御座候。
どうぞ皆々様、壱を暖かく迎えてやってくださいますれば恐悦至極にて御座候。
重ね重ねよろしくお願いをば伏して御願い奉りて申し上げ候。
    
              壱に寄生する蟯虫一同より


8 :日本@名無史さん:04/05/01 22:24
奉ずる群臣は大事に大事に守ったのかな?当時の政情からみて対抗する勢力は?


9 :日本@名無史さん:04/05/01 22:31
>>6
欽明天皇を即位させたい勢力が安閑天皇のブレーンを失脚させた可能性はあるだろうけれど
暗殺はしていないんじゃないかな。暗殺を仕掛けていたらもっとイワクありげな記紀の記述
になってるんじゃないのか。

10 :日本@名無史さん:04/05/01 22:31
対抗する勢力は、当然、異母兄たちと、尾張氏。

11 :日本@名無史さん:04/05/01 22:35
>>9
百済記には、殺されたような記述がありますよね。

12 :日本@名無史さん:04/05/01 22:36
皆さんは
安閑・宣化←→欽明
並立説?

13 :日本@名無史さん:04/05/01 22:36
日本史上、すごく重要なポイントは、
安閑天皇が、史上初の生前譲位にて即位した天皇であること。

14 :日本@名無史さん:04/05/01 22:38
>>12
宣化の娘を欽明は皇后としているし、
そもそもその二人の間の子が嫡流として今の天皇に繋がるでしょ。

15 :日本@名無史さん:04/05/01 22:41
>>11
どうなんですかねえ。真相は。
>>13
そうそう、そこなんだよね。

16 :日本@名無史さん:04/05/01 22:49
安閑天皇の新嫁の名前なんだっけ? 武烈の妹の。

んで、その二人の間に子供って出来なかったの?

17 :日本@名無史さん:04/05/01 22:51
外国本の解釈次第では継体・安閑・宣化の3人ともが同時に死んでいるようなのだが。そうなると
継体天皇から欽明天皇に直接皇位が移ったということにはならないのか。


18 :日本@名無史さん:04/05/01 22:55
欽明天皇には子供がめちゃくちゃ多いが、
皇太子にして次に即位した敏達天皇の母は石姫皇女で、宣化天皇の娘。

もしも宣化天皇が敵対勢力であるならば、
欽明天皇には他の子供も多いので選択肢を変えたはず。

19 :日本@名無史さん:04/05/01 23:19
>>16
その間に生まれたのが息長真手王。
さらにその娘が敏達の皇后。

20 :日本@名無史さん:04/05/01 23:41
>>18その辺、果たしてどうなのか。
>>19どうしてこうも「真手王」の世代が上に行ったり下に行ったりするのでしょうね。


21 :日本@名無史さん:04/05/01 23:54
>>11
欽明天皇側が安閑天皇を暗殺したんだとしたら、中心は旧武烈グループだろうか?
皇位に就いてからならいざ知らず、当時の彼の命令では実行不能と思われるが。

22 :日本@名無史さん:04/05/02 00:52
>>20
>どうしてこうも「真手王」の世代が上に行ったり下に行ったりするのでしょうね。

どういうこと?詳しくプリーズ!

23 :日本@名無史さん:04/05/02 00:55
敏達天皇の母は石姫皇女ではない説があるの?

24 :日本@名無史さん:04/05/02 00:58
上殖葉皇子って、当時どういう位置付けにされていたんでしょうか?

25 :日本@名無史さん:04/05/02 01:00
継體天皇って手白香皇女と結婚したのは武烈時代ですか

26 :日本@名無史さん:04/05/02 01:01
>>22-23困惑させてゴメンナサイ

息長真手王の姫が継体天皇の配偶者になっているという話があり、その一方、
息長真手王の父が安閑天皇という話がある、ということです。



27 :日本@名無史さん:04/05/02 01:05
>>25
それはないと思われ。

28 :日本@名無史さん:04/05/02 01:06
ちゃうちゃう。息長真手王は二人いて、
6世紀の息長真手王の娘の荳角皇女は継体天皇の后妃になっている。

29 :日本@名無史さん:04/05/02 01:10
息長真手王の娘って広姫で、敏達天皇の皇后だよね。
広姫と敏達天皇の息子が押坂彦人大兄皇子(舒明天皇の父)で、
娘が菟道皇女(伊勢神宮第8代斎宮)ですな。

30 :日本@名無史さん:04/05/02 01:15
26です。>>28サンクス。ゴメンナサイ。論議続けてちょ。


31 :日本@名無史さん:04/05/02 01:21
>>27
しかし、武烈天皇の崩御のあとでは、
武烈の姉の手白香皇女は高齢になりすぎていて、
継体天皇との婚姻も形式的なものになってしまうのではないか?

32 :日本@名無史さん:04/05/02 01:26
息長真手王が、もしも安閑天皇の息子だとすると、
息長真手王の娘の荳角皇女は、安閑天皇の孫娘である。
つまり、荳角皇女は、継体天皇の曾孫娘である。

ここで、荳角皇女は継体天皇の后妃になっているので、
継体天皇は自分の曾孫娘を后妃としたことになる。

さすがに自分の孫娘や曾孫娘を后妃とする例は他にもなく、
さらに曾孫娘ということは3世代も異なるわけで、
二人の息長真手王の混同による間違った結果に過ぎないと結論づけることができる。

33 :日本@名無史さん:04/05/02 01:31
息長真手王の孫娘の菟道皇女について質問です。

池辺皇子が斎王の菟道皇女を犯したという有名な事件がありますが、
この池辺皇子は結局だれだったのでしょう?

34 :日本@名無史さん:04/05/02 01:38
菟道皇女は用明天皇の同母妹、推古天皇の同母姉ですね。
これら3人は息長系です。つまり、息長真手王の孫たち。

菟道皇女は池辺皇子に姦されて伊勢神宮の斎宮を解任されていますが、
そのあとを継いだ酢香手姫皇女は用明天皇の娘なので、
依然として息長真手王の曾孫娘が斎宮になったことになります。

35 :日本@名無史さん:04/05/02 01:38
>>31
ということは武烈時代に欽明天皇は生まれていたということ?
となると欽明天皇の出生地は近江になるわけ?
大和じゃあぶないでそ。

36 :日本@名無史さん:04/05/02 01:40
26です。ホントにありがとう。>>32

37 :日本@名無史さん:04/05/02 01:41
>>35
琵琶湖から淀川沿岸にかけても継體天皇の勢力圏だぜ。

むしろ、それらまでが即位後も勢力圏の限界であったため、
大和入りするまでの長い間はそれらの地域に首都が置かれてただろ。

38 :日本@名無史さん:04/05/02 01:44
池辺皇子は、欽明天皇の息子のどれか。

ただし、息長系皇子を除く。

39 :日本@名無史さん:04/05/02 01:52
崇峻天皇=池辺皇子 ですか?

40 :日本@名無史さん:04/05/02 01:52
>>37
じゃあ、手白香皇后は在樟葉だったと考えるのね。

41 :日本@名無史さん:04/05/02 01:55
樟葉で即位した時点で、手白香皇后を伴っていなければ、
手白香なしでも皇統の継承に支障がないのでそれ以降ではない、という見方。

42 :日本@名無史さん:04/05/02 01:59
>>40
継體天皇の樟葉宮での即位を、大和勢力は認めていなかったと仮定すると、
20年後に手白香皇女との婚姻によりようやく継體天皇が大和入りできたことになる。

しかし、20年後の手白香皇女の年齢を考えてみよう。
20年前に亡くなっている武烈天皇の姉なのである。
そしてさらにそのあとに欽明天皇は生まれるであろうか。

43 :日本@名無史さん:04/05/02 02:03
欽明天皇の孫娘である酢香手姫皇女の母は葛城広子

葛城系はこの時点ではまだなんらかの勢力を持っていたと思われ

44 :日本@名無史さん:04/05/02 02:06
菟道皇女の前の斎王の磐隈皇女も、
同様に密通の疑いで解任されています。

こちらの犯人も池辺皇子?

45 :日本@名無史さん:04/05/02 06:06
当麻皇子や酸香手姫皇女は聖徳太子の異母兄弟姉妹になるわけだけど、
外祖父の葛城磐村って欽明政権下での位置付けはどうだったんですか?

46 :日本@名無史さん:04/05/02 07:16
>>31>>35
日本書紀によれば、武烈天皇の崩御時の年齢は18歳らしい。
なのでその同母姉の手白香皇女は、継体天皇即位時には20代前半くらいだと思われる。
また、欽明天皇は571年に63歳で崩じたという記録に基づけば、509年(継体即位の2年後)生まれになる。
ただ、これらの日本書紀の年齢がどこまで信頼できるかは、微妙だが、欽明の崩年が571年であることはほぼ事実である以上、
欽明の生年が継体即位より前だとすると、欽明は崩年時には当時としてはかなりの高齢だったことになり、やはり考えにくい。
もちろん、欽明が生まれたのが継体即位後だとしても、継体と手白香の結婚は即位前ということも十分あり得るが。


47 :日本@名無史さん:04/05/02 07:20
むしろ記紀は、欽明は在位期間が長い割にさほど長生きをしていないような論調で書かれている節がある。

48 :日本@名無史さん:04/05/02 07:42
それよりも、>>40がいっているように、
樟葉で即位の時点で手白香皇女を后としていたのかどうかでしょう。

かなり遅れて大和入りができた理由として、
手白香皇女を后にしたという可能性。

49 :日本@名無史さん:04/05/02 08:52
アカデミックじゃないかもしれないけど、他の有名人の伝説のように、
欽明天皇の生誕地について、例えば民間伝承のようなものはあるのかな。
あくまで参考ということで。

50 :日本@名無史さん:04/05/02 09:10
>>43>>45の話が気になる。他氏が隆盛を極める中での葛城氏は
完全には政治パワーを失っていなかった、ということか。


51 :日本@名無史さん:04/05/02 11:52
昔々、ある大学教授が言うには「欽明天皇は大伴一族の出自である可能性がある」ということだったが、
他にもそういう学説を唱える人はいるのか。それともデムパ?

52 :日本@名無史さん:04/05/02 15:01
>>51
そうすると、応神〜武烈の王朝は葛城氏、崇神から仲哀の系統は息長氏ってことか?

53 :日本@名無史さん:04/05/02 18:08
いや、葛城襲津彦の頃が全盛で、
雄略天皇に、葛城円が殺されてからはそうではないと思う。

しかし、その後も葛城磐村が娘を用明天皇に嫁がせたりしている。

54 :日本@名無史さん:04/05/02 19:20
>>52
というか、「記紀にある大王自体の存在も数も系譜も全く信用ならん」という主張だったと
記憶している。
ちなみに私自身はそうは思わず、記紀の記述には某かの史実が投影されていると見るのだが。


55 :日本@名無史さん:04/05/02 19:26
>>53
欽明政権下で何らかのポストにはいたんだろうね。<葛城磐村
後の紀貫之ほど下がってしまっていてはできない芸当だもんね。
ま、これは極論としていったまでだけど。

56 :日本@名無史さん:04/05/02 21:43
葛城烏那羅は一部で根強い人気が‥‥

57 :日本@名無史さん:04/05/02 22:40
話が飛び飛びになって申し訳ないが、手白香皇后が欽明天皇の母であるということには
みなさん異論はないわけだ。>>51に紹介されている論以外は。
樟葉宮にて欽明天皇が生誕ということでいいのかな?

58 :日本@名無史さん:04/05/02 23:41
樟葉宮って、京阪の樟葉駅のあたり?

59 :日本@名無史さん:04/05/03 01:19
樟葉モール汽車の広場

ここで結婚して即位すれば幸せになれる

60 :日本@名無史さん:04/05/06 21:54
しかし父帝はご高齢であったから、???という意見もあるわけだ。

武烈天皇の皇子が匿われていて、継体天皇の子として即位して、で
も実の父の名は言えないで、ということは考えられるのか?
というのは、あの大伴金村でさえも仁賢ファミリーの存在は無視で
きないわけで、皇太后あたりの意向で内密に皇統を戻したという可
能性がなくもないからだ。
詳しい史料はないのでしょうか。

61 :日本@名無史さん:04/05/06 22:04
生没年不明なのが、どうも引っかかるんで。
もちろん、武烈天皇に子なし、という伝承が記紀には伝わっているけれど、
それとは別に、仮に欽明天皇が武烈天皇の皇子だったという伝承があった
としても、舎人親王や太安麻呂は収録しないだろうな、と思うわけ。
後の皇族は武烈天皇の子孫ということになってしまい、記紀の構成自体が
おかしくなってしまうから。

ということで、こういう仮説を立てられるのか、それともキレイに排除で
きるのか、知りたい。

62 :日本@名無史さん:04/05/06 23:53
葛城氏は雄略の時に、大王家の後継者争いに巻き込まれ
衰退したが、尾張氏とは古くから縁戚関係にあり、
尾張氏と強いパイプを持つ継体が擁立されたことで、
政界に復帰するチャンスを得た。
ということかな?

63 :日本@名無史さん:04/05/09 09:35
>>62
その後の復帰状況の詳細をキボンヌ。

64 :日本@名無史さん:04/05/09 09:37
武烈や仁賢なんて架空の天皇なのに、無意味な議論やってるなw

65 :日本@名無史さん:04/05/09 11:28
てか記紀ってさー、継体からはマジメに書いてんのに
何でそれより前は改竄してんだろ。
全部が全部とは言わんが。不思議だ。

66 :日本@名無史さん:04/05/09 12:12
>>58 樟葉モール
字が違う。正しくは糞袴モール。現在工事中。

67 :日本@名無史さん:04/05/10 00:08
>>65
根拠は?
>>64
だったらみんなが納豆食うする持論を出してよ
>>66
枚方し今日行く委員会の方ですか?


68 :65:04/05/10 00:20
>>67
年齢

69 :日本@名無史さん:04/05/10 00:29
>>68
それは改ざんというより、バイアスがかかってしまったんじゃないの?
大王に仕えていた者達の記録はそれぞれの一族の記録として伝えられて
いて、必ずしも記紀のなすがままに丸写しというわけでもないでしょ?
その記録が全く違うというのならまだしも、整合性の取れる部分もある
わけで、そうなると伝承上のバイアスが考えられるけれど。

70 :日本@名無史さん:04/05/10 00:31
>>64
それは、実在の大王は雄略→継体→欽明の順に即位、ということですか?
(欽明スレなんで)

71 :日本@名無史さん:04/05/11 02:32
わからない。謎だ。

72 :日本@名無史さん:04/05/18 04:56
>>68
継体・安閑・宣化だって年齢はかなり怪しいと思うぞ。
以下、日本書紀準拠の年齢。
継体 450−531 享年82歳
安閑 466−535 享年70歳
宣化 467−539 享年73歳

ちなみに、欽明と武烈も書いておく。
欽明 509−571 享年63歳
武烈 489−506 享年18歳


73 :日本@名無史さん:04/05/18 18:05
今はじめてこのスレみたんだが、要するに論点は何?

74 :日本@名無史さん:04/05/18 18:50
手白香皇女は初婚だったのかどうか、について。けっこう核心。

75 :日本@名無史さん:04/05/18 19:05
そんなことがどうして重要な論点なんだよ?

76 :日本@名無史さん:04/05/18 22:20
>>74
日本書紀での武烈の年齢が事実なら、その同母姉である手白香皇女も年齢的に初婚でしょう。

77 :日本@名無史さん:04/05/19 01:18
漏れも初婚だと思うが、仮に初婚じゃなかったら何だってんだ?

78 :日本@名無史さん:04/05/19 11:37
天皇の姉が、なんで都合良く、未婚のまま行き遅れていたんだろう??

79 :日本@名無史さん:04/05/19 14:58
なんで行き遅れってわかるの?

80 :日本@名無史さん:04/05/20 01:39
>>73-79
二朝並立説の是非(百済本紀の記述は何を表しているのか?)
手白香皇女の成婚は樟葉か大和か(武烈崩御以前なら定説転覆)
有力豪族の権力構図(特に蘇我氏の台頭)
etc
分かるようで意外と謎の部分も多い
よって欽明天皇という存在が当時の日本にとってどういう意味
を持っていたのか、日本の方向性に関与した時代といえるのか
等が論点だと思われ。

81 :日本@名無史さん:04/05/20 03:00
そんなにいろいろ風呂敷広げても漠然としすぎでわかんねーよ
もっとしぼれ、論点を。

82 :日本@名無史さん:04/05/20 03:57
>>72タソの書いているとおり武烈が506年に享年18歳(数え)で死んだ時に
手白香皇女が独身でいたら、同母姉の皇女も当然数え18歳以上なわけで、
当時としたら年増だろうな。

83 :日本@名無史さん:04/05/20 05:35
じゃ、誰かと結婚してたのを離婚させられたのかも知れないし、
武烈生前から継体が有力皇族として存在してたのかも知れないし、
そのどっちかでそ

84 :日本@名無史さん:04/05/20 09:39
少し後の時代のことを考えれば、20歳前後で未婚の内親王は結構いると思うけどな。

85 :日本@名無史さん:04/05/20 17:40
皇統がやばい状況で、なんにも対策の手を打っていなかったのはありえない。

つまり、手白香皇女は既に有力傍系皇族のもとに嫁入りしていた。

ところで、資料間の整合性などを考慮しても、
武烈崩御の時点では、子供はまだ誕生していなかったんですよね?

86 :日本@名無史さん:04/05/20 17:44
武烈なんて架空の人物なのに・・・

87 :日本@名無史さん:04/05/20 22:30
>>85
そこが気になる。仮に記紀の年数に狂いがあった場合、欽明天皇が武烈天皇の・・・
という仮説は可能なのか不可能なのか。
(あの人のことだ、庶子があってもおかしくない)
安閑・宣化両天皇の弟となる皇子にしては若すぎないか?
武烈天皇を忌み、継体天皇の皇子「として」育てられたという可能性はゼロか?

88 :日本@名無史さん:04/05/20 22:32
なんでそんな訳の和漢ないことを時の朝廷があえてする必要があるんダヨ

89 :日本@名無史さん:04/05/20 22:32
武烈自体が架空の存在なんだからナンセンス

90 :日本@名無史さん:04/05/20 22:37
>>88
反大伴金村派の工作という線は?
大物ほど敵も多い

91 :日本@名無史さん:04/05/20 22:39
武烈天皇が架空の存在とする説はもう古い。
前之園亮一がその実在を詳細に考証して以来、実在したとするのが
現在の学界の通説。その説の詳細は昭和61年に出た
「古代王朝交替説批判」(吉川弘文館)にも収録されている。
ちなみにこの本は仁徳以前はすべて架空だから王朝交代もしようがない
という説。

92 :日本@名無史さん:04/05/20 22:40
>>90
大伴金村は継体以後も一貫して権力の座にいるのだから
そんな想像自体ナンセンス。

93 :日本@名無史さん:04/05/20 22:44
>>92
なるほどなあ

94 :日本@名無史さん:04/05/21 06:52
産経新聞の八木説についてどう思いますか?

95 :日本@名無史さん:04/05/21 07:21
つっこみどころ大杉でわかんねーもっと絞れよ、話題を

96 :日本@名無史さん:04/05/21 07:35
中国に朝貢した倭の五王は直接の先祖ではないと言うために
継体を倭の五王の前の応神の子孫にした可能性は?
継体は清寧天皇の子 欽明は武列の子

97 :日本@名無史さん:04/05/22 00:17
そんなの蘇我氏みたいな悪い臣下がいて勝手にすたことだとか
いくらでも捏造のしようがあるじゃん
日本書紀の編集者は本当に判断の材料がなかったので
ニュートラルに編集したら倭五王の話は出てこなかったというだけだろう

>継体は清寧天皇の子 欽明は武列の子

なんでそんな思い付きに固執してるのかまったく理解できん
なんか具体的な根拠でもあるの?憶測でなく。

98 :日本@名無史さん:04/05/22 00:37
>>87
欽明天皇は、571年まで生存している。
そして、欽明の子である推古は、628年に75歳で死んだことから換算すると、554年生まれ。
また、用明・崇峻は推古の弟とされる。
欽明の生年を武烈存命中とすると、欽明はかなり高齢になってから、これらの子供をもうけたことになる。

99 :日本@名無史さん:04/05/22 01:07
>>96氏へ
>>97氏ではないが、どういう根拠なのか知りたい

>>95氏やその他いろんな人の意見により、とりあえず、欽明天皇の父母と
欽明天皇の子を含めて、それぞれの生没年を整理することからはじめるか?
その後はここのメンバーで頃合いを見て順次テーマを決めて逝くと。

100 :日本@名無史さん:04/05/22 01:16
ぜひ、いらしてくだはい
ttp://www.chunichi.co.jp/00/ach/20040513/lcl_____ach_____005.shtml

101 :日本@名無史さん:04/05/22 02:26
まとめますた。
雄略帝   479崩62歳(紀)、489崩124歳(記)、80歳(神皇正統記)、93歳(一代要記・水鏡)、104歳(紹運録)
清寧帝   484崩、39歳(神皇正統記)、41歳(水鏡・一代要記)、42歳(皇代記)
飯豊皇女  484崩、45歳(一代要記・紹運録・水鏡)
顕宗帝   487崩、38歳(記)、48歳(一代要記・神皇正統記・紹運録)
仁賢帝   498崩、50歳(水鏡・紹運録・神皇正統記)、51歳(帝王編年記・一代要記)
武烈帝   506崩、18歳(扶桑略記・水鏡)、57歳(帝王編年記・皇代記)、58歳(神皇正統記)、61歳(天書)
継体帝 531崩82歳(紀/通説)、534崩(紀一書)、527崩43歳(記)、80歳(神皇正統記)
安閑帝   535崩、70歳(紀・神皇正統記)
宣化帝   539崩、73歳(紀)、70歳(神皇正統記)
欽明帝   571崩、62歳(一代要記)、63歳(皇年代略記)、81歳(神皇正統記)
敏達帝   585崩(紀/通説)、584崩(記)、24歳(愚管抄・扶桑略記)、48歳(皇代記・紹運録)、61歳(神皇正統記)
用明帝   587崩、41歳(神皇正統記)、69歳(皇年代略記)
崇峻帝   592崩、72歳(神皇正統記・一代要記・紹運録)、73歳
推古帝   628崩、75歳(紀)、70歳(神皇正統記)、73歳(一代要記・紹運録)

102 :日本@名無史さん:04/05/22 03:40
>>101
すごい。ありがと。
ところで、各年齢は、各資料に一次的に記載されている崩御時の数え歳なの?

たとえば、途中のある時点での年齢が記載されていてという二次的なものもから
計算した結果のものも含むのかどうかってところを知りたくて。

103 :日本@名無史さん:04/05/22 05:16
>>101
何のことわりもなく「484崩」のように書いてある場合の崩年は、日本書紀準拠ですか?

104 :日本@名無史さん:04/05/22 05:34
武烈天皇が、もしも崩御時に18歳だったとすると、
即位したのが小学3年生の時になってしまう。

子供を大王にするのは当然なので、武烈以外の時代では避けている。
どうしようもなくても、皇后などが中継ぎをして成長を待っている。

したがって、武烈が崩御したときの年齢は、
帝王編年記による57歳あるいは神皇正統記による58歳というのが正しい。

105 :日本@名無史さん:04/05/22 06:06
神皇正統記はどんな史料をもとに書かれたものですか?

106 :日本@名無史さん:04/05/22 06:45
>>101
親子関係にある人物が、それぞれの史料で何歳のときの子供かということも算出していただけませんか?
あと、それぞれの史料における欽明と武烈の年齢差も知りたいです。
欽明の母である手白香皇女は、武烈の同母姉妹とされていますので、おおよその目安にはなると思います。

107 :日本@名無史さん:04/05/22 08:56
捏造された系図とデタラメな年齢なんか、何の根拠にもならない。

108 :日本@名無史さん:04/05/22 09:38
>>104
他に後継ぎがいなかったのだから10歳で即位もありえなくはないでそ
有力皇族や母親が補佐(事実上摂政)してた可能性もあるし

109 :日本@名無史さん:04/05/22 10:52
>>101
凄いですな。
崩御年をどうやって算出したのか教えてくれんか。
大体合ってると思うんで。

あと飯豊皇女は崩御じゃなくって譲位っしょ。

110 :日本@名無史さん:04/05/22 11:06
>>109
飯豊皇女って不感症だったて本当ですか。

111 :日本@名無史さん:04/05/22 12:24
後世の後付け年齢なんか、いくら列挙しても意味がない。

112 :日本@名無史さん:04/05/22 17:35
>>108
もし、本当に10歳でオオキミに選ばれていたとしたら、
その補佐していたという有力皇族の名前を教えてください。

もしかして、補佐していた有力皇族が、のちの継体だという論ですか?

113 :日本@名無史さん:04/05/22 18:12
 欽明天皇陵って最後の前方後円墳と
呼ばれてるね。
 樟葉で生まれたのかな?今枚方樟葉の交野天神社の
樟葉宮跡に行ってきたよ。鬱蒼とした森の中の小高い丘。
庶民を治める開かれた宮というより、軍事的な防御施設
の側面が強そう。5年後に今の京田辺に移ったらしい。
そこも丘の上にあり、同じ印象(同志社大学の中)。

114 :日本@名無史さん:04/05/22 23:50
>>112
春日大娘皇女

115 :日本@名無史さん:04/05/23 02:12
>>114
春日大娘皇女は、雄略天皇が認知していないのでダメ。

116 :昨日の101:04/05/23 02:42
あ、色々とレスして下さったようで、ありがとう。
手許に以前集めた資料があったので、それをもとにしてます。

>>103 >>109
はい、崩年は日本書紀準拠です。タネも仕掛けもありませんw
>>102
殆どが一次的なものですが、唯一<雄略帝 479崩62歳(紀)>だけは、
允恭紀七年十二月紀に「大泊瀬天皇を産みたまふ夕に適りて云々」と
出生記事のあることから算出したもので、崩御記事に併記されていたものではありません。
(書紀紀年で允恭天皇七年は418年に当たります。)
>>108
『神皇正統記』は北畠親房によって小田城中で書かれたものなので、参考書などは無く、自身の記憶に頼った部分が多いようです。
ただし、親房は簡潔な『皇統記』(詳細不詳)が一冊だけあったと記しており、数字などの細かい資料をそこから引用した可能性は充分に考えられます。
>>109
飯豊皇女(飯豊青尊)は顕宗即位前紀に崩御記事があります。

>>107>>111といった厳しい意見も尤もです。
例えば、武烈帝を57歳崩とする説は継体紀の誤読でしょうし、
崇峻帝を70余歳崩する説では系図に符合しないことになります。
しかし、私はこれらの数字が全くの根拠無しに書かれたとも思われません。
それゆえ参考資料としてここに掲げたまでであって、
「信じろ」などと言うつもりは全くありません。

117 :昨日の101:04/05/23 02:43
×>>108
>>105

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