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戊辰戦争で幕府軍は何故あっさり負けた?

1 :日本@名無史さん:04/05/01 01:58
仮にも徳川幕府は日本全国の要地を抑えていて、
数百万石の国力を誇っていた。
それなのに薩長土(肥)主体の官軍にあっさり負けたのは
どういうわけなのだろうか?
それをこのスレで語っていきましょう。

2 :日本@名無史さん:04/05/01 02:02
直轄軍を動員せず、譜代の諸藩に戦わせたから。

3 :日本@名無史さん:04/05/01 02:20
てか譜代の諸藩すらろくに戦ってないんだよ。
慶喜が戦線を崩壊させ夜逃げしたからね。

4 :日本@名無史さん:04/05/01 09:22
慶喜は最初から政治戦だけで勝つつもりだったのだが?
武装が貧弱なくせに勝手に暴走したのは会津と桑名だろ。

5 :日本@名無史さん:04/05/01 09:26
第二次長州征伐を冷静に判断すると、いかに幕府の戦闘方法が時代
遅れになってしまったか判断できたはず。それを受けての対応がな
されていなかった。

6 :日本@名無史さん:04/05/01 09:27
>>4
庄内藩が一番暴走したんじゃないかな。
薩邸焼いちゃって。

7 :日本@名無史さん:04/05/01 09:29
>>1
鳥羽伏見の戦いと戊辰の戦いをごっちゃにしているのでは?

8 :日本@名無史さん:04/05/01 17:25
>>2
なるほど、それはごもっとも。
将軍自身はやる気無くて、他人(他藩)だけが戦っていたと。

>>7
鳥羽伏見を含めた戊辰戦争全般のことです。
局地的には幕府軍が頑張ったところもありましたが、
全体的に見れば1年程度で官軍に鎮圧されてしまったわけで、
そういう意味で「あっさり負けた」と書きました。

9 :日本@名無史さん:04/05/01 18:33
幕府が本気になれば薩長なんて一瞬で消滅させられたのに…;;
慶喜がやる気無かったせいだ!!

10 :日本@名無史さん:04/05/01 18:41
>9
そうかあ・・・?
第二次長州征伐なんて完全包囲状態、かつ200,000対5,000の絶対優位の兵力差で挑んでも負けてるぜ?
小笠原がやる気なかったせいっていうんなら同意だけど。

11 :10:04/05/01 18:42
って、戊辰戦争のスレだったな。すまそ

12 :日本@名無史さん:04/05/01 18:51
幕府が倒れるって時に本気にならない幕臣というのは、
幕府は薩長に打倒されるべきだという現実を自覚していたんじゃないのかね?


13 :日本@名無史さん:04/05/01 18:59
>>12
んなことない。江戸にいた幕臣の多くは、
薩長など赤子の手をひねる様な事だと思って暢気に構えていた。
鳥羽伏見に負けて将軍が江戸に帰ってきてから焦りだしたが、
恭順する事になったので戦わずに終わった。まぁ、主戦派が納得せず
局地戦をやったけどね。

14 :日本@名無史さん:04/05/01 19:01
政府軍の大村益次郎にあたる全体的な作戦指導を行う人間がいなかったことと、
各方面の司令官に大藩(米沢や会津)の無能家老を配置したことが原因だろうね。

局地戦での優勢や圧倒的な海軍戦力を最後まで生かすことができず、
結局、各個撃破されてしまった。

15 :日本@名無史さん:04/05/01 19:04
薩長を侮っていた為に赤子の手を捻るように負けたのなら、それが幕府側の実力だったのさ。

16 :日本@名無史さん:04/05/01 19:11
やっぱり新政府軍の方が武器とか性能良かったからでしょう?
日本人どうしで殺し合って困った困った。

17 :日本@名無史さん:04/05/01 19:13
徳川慶喜は、幕府軍の態勢を立て直すために淀藩へ逃げ込もうとした。
淀藩は春日局の実家である稲葉家の直系で、代々老中職を務めた譜代
の家柄だが、幕府の命脈がもはや尽きたことを察知した淀藩は幕府軍
が入ることを拒否した。これが、幕府軍敗退の決定打となった。

18 :日本@名無史さん:04/05/01 20:26
>>17
まてまてぇーい!
徳川慶喜は大阪城から出てないってw
しかも伝令も届いたか届かないかぐらいの時期だろ
幕軍の最前線指揮官が悪いんじゃ。

19 :日本@名無史さん:04/05/01 20:44
津 藩は幕府歩兵、新撰組、旗本衆に鉄砲をぶっ放すようなことやっているし、
彦根藩は持ち場の伏見奉行所をとんずらするし、
準大将の大目付格の滝川播磨守具挙はにげるし。
これが敗退の原因だよ。

20 :日本@名無史さん:04/05/01 20:56
おフランスの軍事顧問は最後まで戦ってくれたいうのに
ホンマ情けないわ腹切ってお詫びします

21 :日本@名無史さん:04/05/01 21:02
ドドイツの軍事商人は最後まで機関銃を提供してくれたのに
股を打ち貫かれてしまってすいません。お詫びします。

22 :日本@名無史さん:04/05/01 22:05
>>16
鳥羽伏見の段階では
薩摩兵・長州兵の主力兵器がミニエー銃だったのに対し、
幕府歩兵は一段上の性能のシャスポー銃で、武器では勝っていた。

・・・・しかし先陣は何故か火縄銃と刀槍が主力兵器のヘタレ会津&新撰組
当然薩摩と長州に秒殺

23 :日本@名無史さん:04/05/02 00:21
>>16
それよく言われることだけど、誤解らしいよ。
幕府側もフランスの後押しでかなり装備は強化されていて、
その面では互角だったらしい。

ただ、幕府側は戦意のない大名連中の寄せ集めで、
指揮系統がまともじゃなかったのが敗因だったのだろう。


24 :日本@名無史さん:04/05/02 22:33
王政復古の朝議、小御所会議で大勢が決していたのではなかろうか。
諸藩日和見状態にしてしまった時点でもう幕府は厳しいのでは。

暗殺の危険もあろうが、
あえてあの会議に誰かを参加させられなかったものだろうか。

25 :日本@名無史さん:04/05/02 23:10
東海道を渡って来る倒幕軍を幕府海軍が横から叩けば勝てたのだ。
大村益次郎も危なかったと話している。
勝海舟が倒幕派と組んで反撃を阻止したから負けたのだ。


26 :日本@名無史さん:04/05/02 23:17
1000人ぐらい死ぬと幕府軍は我先にとにげだしそうなかんじだが。
いい武器持っていても士気が無ければ国府軍や南ベトナム軍のように総崩れになってしまう。


27 :日本@名無史さん:04/05/02 23:22
幕府方の比較的士気の高い軍は、ほぼ例外なく旧式装備で、
装備がいいとこは、士気が低いんだよ。
その結果、どちらも装備も士気も高い薩長に、鎧袖一触で蹴散らされ、
新政府軍の宣伝になってしまった。

28 :日本@名無史さん:04/05/02 23:28
会津や幕府歩兵は夜襲とか側面攻撃とか火砲を持った相手に対して作戦で補うような戦術を執っていないような。
薩長は弾薬が少ないんだから、可能な限り弾薬を費消させた後に攻撃に出れば
薩長もかなりの打撃を受けたと思うが。


29 :日本@名無史さん:04/05/02 23:57
鳥羽伏見の敗因は、
幕府士官の旗本が腰抜けだったからだね。
旧体制保全の家柄だけの無能なものが指揮官なら、
その軍は最弱だな。

30 :日本@名無史さん:04/05/03 00:09
そして将軍慶喜が早々に蟄居謹慎したし、
幕府にははじめから戦う気力がなかったね。

その幕府のために戦った
甲府で負けて処刑された新撰組近藤勇もかわいそうだし、
幕府の有能勘定奉行 小栗の処刑もかわいそうだ。

越後長岡藩の河合つぐのすけは、良く戦ったが、
それは、武士の意地のためか、
しかしおじや会談の岩村は最悪だな。
あとで奥州で暗殺されたが、当然だろう。

戊辰戦争最後の函館戦争の土方歳三もかっこ良かったよね。

戊辰戦争の戦闘能力として評価すると、
長州藩所隊 100
薩摩藩    90
土佐藩    60
肥後藩    50
長岡藩    70
会津藩    50
庄内藩    50
幕府旗本 −100
幕府海軍   70
だろう。
何度戦っても薩長軍は圧勝するだろうね。

31 :日本@名無史さん:04/05/03 00:44
鳥羽伏見の戦いでの幕府軍の司令官は竹中重固。
この人、実は竹中半兵衛重治から12代目の子孫。

32 :日本@名無史さん:04/05/03 01:29
>>30
長岡はガトリング砲が強かっただけのような気がする。

33 :日本@名無史さん:04/05/03 03:14
>勝海舟が倒幕派と組んで反撃を阻止したから負けたのだ。

倒幕派は大政奉還 公議政体路線を踏みにじって徳川家潰しの戦争始めたんだから
勝は反撃しる派だよ。
それでも慶喜が恭順を選択したから、主命に従っただけ。


34 :日本@名無史さん:04/05/03 03:42
巨人がダイエーに負けるようなものかも。

35 :日本@名無史さん:04/05/04 12:37
幕府軍ってなんだよ。
戊辰戦争の時は既に幕府じゃなかったわけだが。

36 :日本@名無史さん:04/05/04 14:21
>33
でも益満休ノ助というクズを生かしていたのは
許せん。

37 :日本@名無史さん:04/05/04 15:02
新政府軍が「天皇」を持ち出してきてしまった。
これで旧幕府側は「逆賊」となってしまい、大方の士気を奪った。
また、諸藩も朝廷に恭順せざるをえなかった。
(奥羽列藩同盟も榎本軍も全て、「天皇及び朝廷に敵意は無い」と弁明している)


38 :日本@名無史さん:04/05/04 16:49
>>37
やっぱそれが大きいか。岩倉たちの政治工作のたまものだな。
戦争は軍事力だけでなく、政治的工作や計略も重要だということだな。

39 :日本@名無史さん:04/05/05 01:07
徳川幕府のいわば柱石であったはずの譜代がだめすぎたんだよな。
長州征伐失敗などはまさにそれが表面化した事件。
小笠原終わってる・・・
で、鳥羽伏見では畿内の親藩・譜代が裏切りまくりと。

40 :日本@名無史さん:04/05/05 08:24
>>37
奥羽奥羽列藩同盟は東武帝という天皇を作り出そうとした。

41 :日本@名無史さん:04/05/05 08:52
>>32
長岡のガトリング砲は偽者じゃなかったっけ?

42 :日本@名無史さん:04/05/05 23:09
>>40
それ本当かね。なんだか眉唾物だけど。

43 :日本@名無史さん:04/05/06 01:43
幕府軍は負けたっつーけど、そもそも戊辰戦争で敗者なんていたのか?
徳川家の政権放棄は徳川家自身が選んだものだし。トップクラスの大大名で存続して公爵なんだから勝ち組でしょ誰がどう見ても。
幕臣も有能でIQ高い椰子は明治になっても活躍するし
徳川慶喜も松平容保も優雅な老後生活送って天寿松任してるし。
東軍の悲劇つったって、一部のどんくさい香具師が犬死にしたりIQ低かったりで失職して路頭に迷ってただけで
どうせ幕府側が勝っていても負け組だった連中でしょ。
戊辰戦争に勝敗なんてなかったのさ。






44 :日本@名無史さん:04/05/06 01:47
戊辰戦争には幕府軍なんていないだろ。

45 :日本@名無史さん:04/05/06 01:55
既視感のあるつっこみだ

46 :元目付:04/05/06 18:22
>40
東武皇帝 輪王寺宮
将軍   伊達慶邦
副将軍  松平容保
陸軍奉行 竹中重固
海軍奉行 榎本武揚
確かNHKの「歴史への招待」のムック本で見たことあります。「榎本艦隊
北へ」の回だったような・・・。江戸の彰義隊、北関東の大鳥・土方と大同
団結し、関東以西に薩長を追い落として、徳川慶喜の復権と幕藩体制の緩や
かな回復がスローガンだったような・・・。

47 :日本@名無史さん:04/05/06 19:04
津藩というか藤堂家て清々しいぐらい分かり易い家だよね。
藤堂高虎といい鳥羽伏見の時といい。
しかし彦根藩て譜代筆頭で長州征伐の先鋒だったぐらいなのに、なんで鳥羽伏見の時には
早々と幕府見捨てるようなことが出来たのかな。

48 :日本@名無史さん:04/05/06 19:27
榎本武揚が悪いんだろ
軍艦で薩摩を急襲すれば艦砲射撃で楽勝だし
ホームレスになった薩摩なんか誰も相手にしなかった

49 :山埼渉:04/05/06 19:29
>>そもそも戊辰戦争で敗者なんていたのか?

上級領主はその経済基盤である領主制が廃止されました。
彼らは政治権力から除外されました。だから彰義隊が反乱を起こしました。
下級武士は命をかけて軍事力となったのに生活は改善されずに、
各地で不平士族の反乱を起こしました。

>>トップクラスの大大名で存続して公爵なんだから

形式的にはそうですが、実際の政治権力の重要な場面からは遠ざけられて、
下手に反乱を起こしたりしないように懐柔しただけです。

50 :日本@名無史さん:04/05/06 20:41
箱根挟撃論みたいな話はよく聞くのだが、
仮に海軍と洋式歩兵で東海道軍する部隊を殲滅できたとして、
中山道軍をどう抑えればいいのか?

つーか、慶喜恭順の状態で誰が旧幕府軍の統制するのか?

51 :日本@名無史さん:04/05/06 21:13
>>37
つっても長州は朝敵に認定されても、幕府軍に勝っているからなあ。
へタレが言い訳しているだけじゃないのかと。

52 :日本@名無史さん:04/05/06 22:00
たしかに、第二次征長は失敗で敗北を喫したわけだが、
先方は彦根藩兵じゃなかったっけ?
財政困難な藩兵は軍備も古く、士気も低いと聞くので決死の長州に負けて
当然かと思う。
圧倒的な海軍も奇襲されるという失態、薩摩ら諸藩も征長の非を説く状況
になってしまう。
それでも慶喜が引かなければ長州は滅んでいただろうと思う。

53 :日本@名無史さん:04/05/08 06:58
宮さん 宮さん

54 :日本@名無史さん:04/05/08 19:30
慶喜自身が長州より薩摩を憎んでいたので、
士気が上がるはずもない。


55 :日本@名無史さん:04/05/08 20:40
参加していた諸藩は軍資金不足と士気の低下でさっさと帰国したがっていたんだから
たとえ慶喜にやる気があっても戦争の継続は無理なんじゃないかな。
長州大討込を速攻で撤回した原因もこのあたりだろうし。

はっきりいってあの状況で「勝つまで長州攻めを継続」なんてことするのは家康でも無理でしょ。

56 :日本@名無史さん:04/05/08 22:34
>>52
長州征伐かぁ、
五分の戦いをしているのが広島方面だけってのが痛かったな。
この方面は井上が参謀しているくらいで、まともな司令官がいなかったので十分勝てる戦いだった。
広島藩が長州に通じていたり、不安点が多いが、逆撃できる唯一の場所だった。
また小倉方面は熊本藩が頑張ってくれれば、なんとかなったかもしれない。
だがあまりの幕府軍のへタレっぷりに、呆れていたそうだけどね。
石見方面はどうしようもないな、相手が悪い。

あと長州が滅ぶまで対陣するのは難しいと思うぞ、戦闘では勝てないってのを宣伝される事になる。
また下関は北前行路の重要地点で、あそこを封鎖されると、流通網が遮断され、
大坂や江戸の物価が高騰し、庶民の不満が高まるし、物資を買い上げるのが困難になる。
欧米の圧力もあるだろうし、かなり難しいと思う。
場所が土佐や薩摩だったら、藩そのものを封鎖しても問題なかっただろうけど、長州の場合、場所が悪い。
幕府そのものが逆に封鎖される形になる。つーかなんで幕府があんな需要拠点を西軍大将に与えたんだろ。


57 :日本@名無史さん:04/05/09 21:40
>>56
薩摩も海外との貿易ルートがあったから、
下手に封鎖できないのは同じだと思う。

確かに毛利に防長与えたのは失敗だったかもね。
どうせなら本拠地の安芸・吉田を安堵しておけばよかったかも。
吉田のような山奥ならさほど問題ないと思われる。

58 :日本@名無史さん:04/05/10 23:18
やっぱり大将たるべき徳川慶喜がやる気無かったのが一番の原因かも。
譜代・親藩が集まったとしても大将がまともじゃなければ単なる烏合の衆。
さらにはその譜代・親藩もかなりの数薩長側についてしまったため、
ますます幕軍は統制を欠いた状態になってしまったと。

59 :落合:04/05/10 23:43
>>23
そう、大砲だけじゃ勝てんのよ。
読売さんの火力は素晴らしい。
でも、徳川幕府が戦略・戦術で負けたように、
相手の隙をうまく付くことが出来れば、勝てないわけでもないのさ。

60 :日本@名無史さん:04/05/10 23:50
>>30
>戊辰戦争最後の函館戦争の土方歳三もかっこ良かったよね。

土方は、味方によって殺されたって説も有力だけどね。
五稜郭に籠もった榎本たち幕府軍首脳は、すでに降伏を腹に決めていた。
しかし、土方がいつまでも徹底抗戦を主張して聞かないため、戦死に見せかけて土方を始末したとか。

61 :  :04/05/10 23:51
>>43
戦いに敗れて、斗南藩という、津軽半島の、寒くて冷たくて痩せこけた土地に
強制的に移住させられた会津の将兵は負け組ではないのか?

62 :日本@名無史さん:04/05/10 23:55
斗南藩は下北半島ね。今の季節は新緑・温泉・海の幸が観光の目玉
ですぜ。

63 :  :04/05/11 00:05
>>62
うぐぅ・・・・ 間違えますた。
斗南のことをいろいろググって調べておりますが、旧会津藩士は、廣澤安任と
いう人を初めとして、ただ恨み言ばかりを口にしているような人たちではなかった
ようですね。
http://www.misawasi.com/~tonamihan/memorial03.html
・・・・・と、更に脱線(^^;

64 :日本@名無史さん:04/05/11 19:21
>>63 たしか斗南藩の開墾は海外の例とか取り入れて、極めて計画的
だったはず。もっともうまくはいかなかったんだけど。

65 :日本@名無史さん:04/05/11 19:26
>>55 明治の版籍奉還や廃藩置県が内戦が起こる事も無く無事終了
したのもそれが理由だと思う。幕末の紛争で戦費に財政の大半を
費やしてしまって、大方の藩は破綻ギリギリの状況にいた。そこに
新政府が領土領民等を取り上げるものの、藩の負債も全て肩代わり
するとしたので特に抵抗も無く済んだんだろうと思う。

66 :日本@名無史さん:04/05/12 05:43
長岡藩から新潟を没収したのが痛かった。
新潟が長岡藩領だったら幕府が勝ったかもしれんのに・・・

67 :日本@名無史さん:04/05/12 06:07
幕末の幕府は、ちょうど、今の民主党で党首が小泉みたいなもんだろう。
やることなすこと全てが裏目に。これでは、どんなに党首が優秀でも
勝てやせん。
あと、慶喜研究で有名な松浦令によれば、鳥羽伏見時の慶喜は戦闘も
政争もやるきマンマンだったと書かれているね。ただ、鳥羽伏見の敗戦
で情勢がガラリと変わってしまい、その喪失感が大阪城退去という
結果を呼んだと述べている。

68 :日本@名無史さん:04/05/12 06:40
http://www.n-shingo.com/cgibin/msgboard/msgboard.cgi?page=19
では、公明党とは何か・・・
 それは、宗教団体である創価学会と不可分一体の政党である。
 創価学会がなければ公明党は存在しない。創価学会は、公明党という政党を作り維持し選挙を支えている。
 創価学会と公明党という名称は、宗教面と政治面で使い分けられたレッテルであるにすぎず、この実態は宗教・政治にまたがった一体の存在である。
 したがって、創価学会のカリスマ的指導者は、池田大作氏であり、創価学会の指導者は、即、公明党の指導者である。
 なぜ、日本のマスコミが、創価学会と公明党のことを指摘せず、むしろ捨象して、「二大政党制」と言いふらすのか・・・。
 なぜ、「政治評論家」もマスコミと同じなのか・・・。

 その理由は、お分かりだろう。

 選挙になれば、痛感することだが、
創価学会と公明党の体質は、
「他に対しては、激しく口汚く批判し攻撃するが、自らが批判されることは激しく拒否し、批判を回避するために相手が根負けするまで執拗に敵視攻撃する」ということである。
そして、この体質で一糸乱れず動く集団が、不買運動を展開して企業であるマスコミを倒産に追い込むこともできる力を蓄えているどころか、いまや、与党として財力どころか政治的権力も握っているではないか。

 したがって、この一文も、覚悟して書いているのである。

 日本の第四の権力と言われるマスコミが、
その機能を果たさず、創価学会と公明党のことを無視して二大政党制という幻想を振りまき、国民が実態を見れないような情報操作を、続けているように見える。
 
 これは、わが国の民主主義の危機である。

 私は、領土であれ、国民の拉致被害であれ、国の危機を認めれば必ず立ち上がる。それが、議員の使命と心得ているからだ。

 さーて、これから、私に対して、
 執拗なる○○○○○が起こるんだろうな。

西村眞悟を民主党代表に
http://tv5.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1084049341/

69 :日本@名無史さん:04/05/12 06:57
新潟港は事実上長岡藩が武力進駐をしていた。
新潟港を押さえていたために新政府軍から疑惑の目で見られて
中立は方便との基本方針を取られてしまった。

70 :日本@名無史さん:04/05/12 09:36
>>60
そんな早乙女貢みたいな説を最近吹聴する香具師が多いのは
何か意図があるのかね?
味方に殺された…という事にしたいのかな〜?

土方を撃った側の人の子孫と土方の実兄の子孫が会って
話をしてるのに。

71 :日本@名無史さん:04/05/12 10:20
一枚岩では無かったからあっさり敗けた。

72 :日本@名無史さん:04/05/12 17:25
>>67 鳥羽伏見の一戦に賭けてたのかな。
大阪城まで退却してもまだ勝機はあったかもしれないのに。

73 :日本@名無史さん:04/05/12 17:55
慶喜にやる気がなかったに俺も賛成。
もしも慶喜が本気になっていたらもっと戦いは長引いていただろうし日本の国力
は間違いなく低下していたと思う。
俺の中では慶喜の評価は結構高かったりしますw
戦い続けた人よりも戦わずに生き延びた人のほうが何となく好きなんだよね
ちなみに日本史じゃないけど劉禅は暗君だと思ってないです

74 :日本@名無史さん:04/05/12 19:01
阿斗=慶喜

75 :日本@名無史さん:04/05/12 22:26
戊辰戦争ほど勝者による敗者へのしうちが寛大だった戦争もめずらしい。


76 :日本@名無史さん:04/05/12 22:55
単に幕府が酷かっただけのような。

77 :日本@名無史さん:04/05/13 03:13
>>75
会津以外はね。

78 :日本@名無史さん:04/05/13 04:06
>>77
そうか?容保は子爵になったし
斗南の連中はたった2年だけで多くは会津に帰ってるし
元の敵を大勢官吏や教員に採用してやってるぞ




79 :日本@名無史さん:04/05/13 06:02
子爵ってだけでもすごいけど
本来なら伯爵相当をもらえるはずが
会津だからって爵位が下げられたはず。
軍関係は出世も制限があったんじゃなかったっけ。

80 :日本@名無史さん:04/05/13 06:21
>75
外国勢力がいたからね。
きつい仕打ちをして幕府軍との内戦が起こったら、維新はただの
地方VS中央の権力闘争、イギリスVSフランスの代理戦争になる。
敗者全てに寛大だと、勝者のなかにはおさまりがつかないのみいるので、
薩長から物凄く嫌われていた会津だけをいけにえにして、後は寛大にするのは
内戦をさけるにはいい手だと思うよ。


81 :日本@名無史さん:04/05/13 12:13
差別?がなくなって東北軍人が陸海のさばったら
とたんに大戦争おっ始めて惨敗

82 :日本@名無史さん:04/05/13 13:21
松岡大先生の賜物でつ。


83 :日本@名無史さん:04/05/13 21:44
>>80
薩摩は別に会津を嫌ってはいない。

84 :日本@名無史さん:04/05/13 22:18
>>83
戊辰戦争で薩摩藩と会津藩は、独ソ戦なみのジェノサイド合戦やってた
西南戦争で旧会津藩士の多数が政府軍側に従軍したのはこのせい

85 :日本@名無史さん:04/05/13 22:29
>>84
薩摩藩は別に会津藩を嫌ってはいなかっただろ。
例え戊辰戦争でしこりが残ったとしても、西南戦争で会津側の鬱憤は晴れたろうし。

86 :日本@名無史さん:04/05/13 23:14
会津を嫌ってたのはどっちかっていうと長州だろ。
薩摩は嫌ってはいないけど、戊辰戦争でいろいろやらかしたし
一時期同盟組んでた割に寝返ったから
一方的に会津から嫌われてたんじゃないのかなー。
戦後の措置にしても、薩摩は会津によくしてあげてると思うけど。

87 :日本@名無史さん:04/05/14 00:17
会津が政権とったままだったら、第三次長州征伐のみかいずれは
薩摩まで殺られたんじゃないかな。
だから薩摩はせめて共存できる体制に持ち込もうとしてたのに
会津は妨害しまくった。
だから薩摩が攻めてきても会津は自業自得だと思われ。


88 :日本@名無史さん:04/05/14 00:51
最初から長州征伐に会津や新選組を投入して、
きちんと征伐してれば歴史は違っただろうね。

89 :日本@名無史さん:04/05/14 01:02
無理無理。会津藩はそんなに強くないだろ。
ただでさえ京都警備で金がないってのに。
あの時期に大量の洋銃と西洋銃陣を整備できるとは思えない。
刀だけの新撰組は論外だろうな。

90 :日本@名無史さん:04/05/14 01:17
>>87
会津は薩摩と組んでいたんだから、薩摩を攻める動機がない。
共存できる体制を妨害していたのは長州じゃないの?

91 :日本@名無史さん:04/05/14 01:23
人海戦術で長州が弾切れになるまで幕府が肉弾攻撃を加えるとか。
こんなことやれば長州より先に幕兵の方が瓦解する危険はあるができないことは無い。


92 :日本@名無史さん:04/05/14 01:46
長州が大量の西洋銃陣を整備するのは第一次征長の後のことでしょ。
やる気のない徳川慶勝が長州に再起の時間を与えてしまったのが痛い。
西郷なども最初は武力制圧を主張する強硬派だったのだが、
あまりに優柔不断な幕府を見限り、薩長同盟に踏み込んでいく。
長州追討の勅命が出た時にすかさず攻め落とし廃藩にすべきだったね。

93 :日本@名無史さん:04/05/14 02:04
慶勝に寛典論を説いていたのが西郷なんだが。


94 :日本@名無史さん:04/05/14 02:22
>>85
正直な話抜刀隊はやられ放題だった

95 :日本@名無史さん:04/05/14 03:06
「いずれ追討の勅命相下り申すべき儀と存じ奉り候に付き、その節は
正々堂々の兵をもって長賊を駆り尽くし申すべしと相待ち居り申し候」
これは禁門の変の際の西郷の手紙。
この直後征長の勅諚が発令されてる。
このとき幕府が迅速に長州に攻め込んでたら薩摩は幕府側で戦功をゲットする道を選んだはず。
しかし将軍家茂は陣頭に立たず、征長総督は当初紀州、ついで尾張に押しつけられる。
尾張慶勝は朝廷からの督促を受け流して進発は何ヶ月も遅延。
幕府の志気が低いのならば、
薩摩としては長州を温存してキャスティングボードを握る方が得策ということになる。

96 :日本@名無史さん:04/05/14 03:06
>>92
それでも無理だよw。
やる気があったのは会津だけだろ。その会津も出兵してないし。
みーんな無気力じゃ勝てんよ。

97 :日本@名無史さん:04/05/14 03:09
藩同士が争っていたわけでもないだろう。
長州以外は。

98 :日本@名無史さん:04/05/14 03:10
会津は攻め手に対して守っただけだ。

99 :日本@名無史さん:04/05/14 10:06
>95
第二次長州征伐が成功しかけたら薩長同盟の
手前、長州に援軍をだすのかな。

100 :日本@名無史さん:04/05/14 10:06
100get

101 :桓武平氏:04/05/14 18:58
慶喜さんが前面にたち諸藩が、やる気をだせば問題なかったんだね。
もし倒したらその領地は諸藩に分けるっていえば死に物狂いで戦った・・・
かもね。

102 :日本@名無史さん:04/05/14 19:41
>>101
長州領を丸ごと貰えるならまだしも、諸藩で山分けじゃあ割が合わないよ。
戦費と戦った論功行賞で家臣に与える土地金が全然足りん。

103 :日本@名無史さん:04/05/14 22:24
>>101
薩長が幕府に強気な態度がとれたのも
フランス以外の諸外国は徳川政権を見捨てたのも
それをする力が幕府に無いことを見抜かれてしまったのが原因だろうね。

徳川幕府存続のシナリオ書くなら最低でも井伊直弼が大老になる前までさかのぼらないと無理でしょうね。

104 :薩摩出身者:04/05/15 03:23
横レスで申しわけないのですが、実際のところ
うちの郷里の先代たちは戊辰ではどうだったのでしょう?

他のレスでは
「会津での略奪暴行に参加したのは薩摩と土佐で、長州は不参加」
というのがあって、ここのスレでは
>75>86
のような意見もあります。

ただ単に、自分の出身地だからすごく気になってしまう
といった気持ちからなのですが、詳しい方どなたか
教えてもらえませんでしょうか。

105 :日本@名無史さん:04/05/15 08:48
>>104
暴行略奪に関しては会津研究家がそういっているだけだよ。
会津戦争で酷いことしたのは長州藩だと長い間思いこんでいたらしい。
最近になって薩土藩が主力だった事に気がつき(←何を研究してたんだかw)
じゃあ、会津に酷いことをしたのは薩土だと短絡的に言っているだけ。
ちゃんと研究検証された訳じゃないから自分で調べた方が良いと思うよ。

106 :日本@名無史さん:04/05/15 10:33
第二次長州征伐は諸藩寄せ集めで士気が低く、装備も古い陸戦部隊が負けた
のは分かるけど、圧倒的な優位な幕府海軍の軍艦も役にたってないのは理解
できないな。

107 :日本@名無史さん:04/05/15 10:52
榎本がぐずぐずしてたからだろ。

108 :桓武平氏:04/05/15 17:36
圧倒的な兵力があっても、何事も官僚化されて動きが鈍い。
打開するなら、慶喜さんが前面に立つ事だったね。今の政治とは違い、将軍
が立てば全て動くこれが、幕府でしょ。軍事体制なんだから。薩長が敵だと
慶喜さんが腹に決め全力でやれば、勝ったでしょうね。
同じ様な事でもし、豊臣秀頼が前面に出て戦ったら、どうなったかって思う(余談ですが)

109 :日本@名無史さん:04/05/15 18:29
>>106
結論から言うと、海軍を運用する「技術者」はいても、
海軍を使って運用して成果をあげる「戦略家」がいなかったから。

例えば北越戦争で河井継之助は重要拠点だった新潟港をガラ空きにするという
今の軍事上の常識からしてみれば信じられないミスをして負けているんだけど、
そんな河井ですら、当時は名将と言われている。

要するに当時の平均的な戦略的知識のレベルというものは「その程度」でしかなかった。


110 :日本@名無史さん:04/05/16 03:37
>>78
会津25万石から斗南3万石への大減封。(石高は旧領の2割以下)
こんな藩は他にはないはず。(
戊辰戦争で唯一改易となった上総請西藩(1万石)も、まもなく親族に5千石(旧領の5割)が還付されているし。

>>79
会津だから下げられたのではない。
廃藩置県段階での実高で爵位を決定したから。
もし会津時代の石高で爵位を決定していたら、侯爵相当だろう。

111 :日本@名無史さん:04/05/17 00:39
>>110
10分の1に減らされた駿府藩を忘れてるぞ
よっぽど被害妄想にふけりたいらしいなw

112 :日本@名無史さん:04/05/17 04:04
>>111
400万分の70万なら、それも2割弱だね。
10分の1は言い過ぎ。(もしくは旗本知行地も入れて考えてる?)

まあ、一応旗本知行地は除外したほうが良いと思う。
明治維新段階だと、知行地を持つ旗本は、幕府の統制から離れて勝手に新政府側についているものが結構いるし、維新後駿府藩領のなかに旗本知行地が移されたわけでもないし。

113 :日本@名無史さん:04/05/17 13:34
>>112
苦しい言い逃れだねぇ
素直に負け認めとけ


114 :日本@名無史さん:04/05/17 16:34
>>113
言い逃れなんかしてないだろ。
誰かに負けたわけでもない。

115 :日本@名無史さん:04/05/17 17:01
>>113
粘着はほっとけ
会津厨は会津が一番虐められてないと満足しないマゾ

116 :日本@名無史さん:04/05/17 17:06
疑問なんだか、関ヶ原のように東軍・西軍に別れて戦ってたらどうなっていたのだろう?
幕軍も一枚岩となって戦っていたら・・・

117 :日本@名無史さん:04/05/17 17:22
>>115
なんでも会津厨と決めつけるやつのほうが粘着だろ。
会津が叩かれたのは事実だし。

118 :日本@名無史さん:04/05/17 17:26
>>116
どこで西と東をわける?

119 :日本@名無史さん:04/05/17 17:36
>>118 ちゃんと読んだか?
アホの相手は疲れるよ…

120 :日本@名無史さん:04/05/17 17:54
>>116
膠着状態になるんじゃないかね?

121 :日本@名無史さん:04/05/17 20:33
>>116
幕府軍側でまともな洋式装備があるのは幕府歩兵と長岡藩ぐらいじゃないか?
幕府歩兵は装備はいいけど傭兵部隊で質が悪いし、薩長土肥の洋式装備部隊
と大勢で真正面から野戦なんか選んだら、あっという間に幕府側の敗北になる気
がするが。



122 :日本@名無史さん:04/05/17 23:49
>>113
会津藩(→斗南藩) 3÷25=0.12
将軍家(→駿府藩) 70÷400=0.175

普通に会津藩のほうが減封率高いですよ。w
ちなみに私は会津関係者でも旧幕臣の子孫でもありません。

123 :日本@名無史さん:04/05/18 02:21
やっぱり肥前藩が新政府側に付いた時点で旧幕府側に勝ち目はなかったと思う。

124 :日本@名無史さん:04/05/18 02:23
>>123
アームストロング砲?

125 :日本@名無史さん:04/05/18 16:18
宇和島って結構強くなかったっけ…?
近代的な武装整えてたって話聞いた事あるような

126 :日本@名無史さん:04/05/18 19:34
>>125
確かに近代的な武装を整えていたみたいだね。
小藩ながら軍艦もつくったようだし。

127 :日本@名無史さん:04/05/18 20:37
第二次征長で敗北した以上もう無理でしょ。
第一次のときに徹底的に叩いとかなきゃ。




128 :日本@名無史さん:04/05/18 22:15
藩主は親戚同士なのに、仙台と宇和島の明暗をわけたのは、なんなのだろう?

129 :日本@名無史さん:04/05/18 22:31
>>128
地理

130 :  :04/05/18 22:36
>>129
今ならば、仙台よりも宇和島のほうがよっぽどド田舎なのだが・・・・・

131 :日本@名無史さん:04/05/18 22:42
>>130
ま、それでも革命が起こるとしたら西からだろうな


132 :日本@名無史さん:04/05/18 22:45
それにしてもなんで会津とか火器火砲の優劣はともかく
簡単に防衛拠点落とされたり突破されたりしてるんだ?
指揮官とかは幕府、列藩同盟のほうが有名だが薩長側のほうに
無名でも優れた指揮官が多かったってことか。
当時の戦記類とか読むとなんでこんな楽々と出し抜かれてるのかって腹が立つぐらいだ。

133 :日本@名無史さん:04/05/18 22:50
>>132は城とかではなく(たしかに城とかも簡単に奪取、奪回されてるのが多いけど)
野戦における防衛地点とかちょっとした陣地みたいな意味です。

134 :日本@名無史さん:04/05/18 22:57
兵力差でしょうに。
白虎隊などを前線に投入せざるを得ない会津軍と、
烏合の衆とはいえ各藩連合軍である西軍。
会津は戦線拡大しすぎで肝心の故郷を守る兵力が不足してたのでは?
越後とかにも派兵してたしね。
個別の守備線やら保塁やら単位で見ても、兵力差・戦力差があった
んでしょう。
更に、長岡藩のような軍事的統率者がいないわけで…
西郷頼母じゃ無理でしょ、城落ちても生き延びてる家老なんて…

135 :日本@名無史さん:04/05/18 23:03
>>134
兵力差もそうだけど、とにかく薩長側って機動力があるよね。
橋を守れって駆けつけても先に薩長軍に橋を占拠されたりとか。
とにかく薩長軍、官軍ってやったら動きまわってかく乱してくる感じです。
前出の戦記類読むと。

136 :山口県人:04/05/18 23:09
本当に惜しい人物もいますしね。東北側にも。
玉虫左太夫とか若生文十郎とかは、もし赦されて新政府に仕えたなら、
それなりの仕事をしたと思うんですよ。

対するに、我が屋代島出身の世良修蔵。
何の能があって参謀にまで登りつめたのか不才にはわからないのですが、
維新後に生き残ってもはっきり言って使えなかったでしょう。

福島で惨殺されたのは、世良本人にとっては無念だけど、国家国民にとっては
良かったのかも。

137 :日本@名無史さん:04/05/18 23:15
>>136
玉虫はもし生きながらえていたら自由民権運動に身を投じたのかな。
少なくとも政府で職を得ても長続きしなかったんではないだろうか。
彼の思想は政府の進める政策とは対立するものだし。
世良にしても仮に生きててもなんの影響もなかったのでは?
彼と五十歩百歩の人間なんていくらでもいるし。
どっかの岩村さんとか。

138 :日本@名無史さん:04/05/18 23:19
>>135
官軍の方が服装とかの面でも機動性が優れてたのかも。
薩長土以外は雑魚だった連合軍だけど、雑魚には後方
の守りさせればよかったし。

139 :山口県人:04/05/18 23:20
>>137
仙台藩の上級武士である玉虫は、盛岡藩の家老である原氏を知っていたので
しょうか?
もしも、維新で死を賜ることがなければ、あるいは原の道を歩いたかも?
・・・・・というのは妄想に過ぎましょうか?

140 :日本@名無史さん:04/05/18 23:39
>>138
そう言えば思い出した。
昔の人たちはそれこそ忍びの者でも無い限り、現代人のように早く走れなかったって。
それを変えたのが軍隊での洋式訓練、後の義務教育での集団での体育だとか。
洋式訓練を積んだ薩長兵は普通に走れても、旧式の幕府兵、列藩同盟兵は走力で劣ったとか。
もしこの妄想が事実だったら・・・・・・そういうこともきちんと書いてくださいS乙女氏。
あなたの書き方では会津の兵達がただのノロマに見えてしまいますよ。

141 :日本@名無史さん:04/05/18 23:52
>>1
そういう演出だったから

142 :日本@名無史さん:04/05/19 00:19
>薩長軍
正確には薩摩土佐軍だ。長州軍は越後でモタモタし、会津国境付近でもモタモタしてが?

143 :日本@名無史さん:04/05/19 00:22
>>136
世羅の事をちゃんと調べてから語れ。山口県人の名が泣くぞw。
世羅は参謀になってポカをやったが、それ以前の奇兵隊や諸隊の幹部の頃はかなり有能だったよ。

144 :日本@名無史さん:04/05/19 01:28
馬鹿が岩村を悪役にして溜飲下げても
倣岸な態度で会談やって準備どうり
開戦にもっていった河井の罪は未来永劫消えんよw

145 :日本@名無史さん:04/05/19 14:29
>>128
高野長英を抱えたか抱えなかったかでは

146 :薩摩出身者:04/05/19 17:30
この手の「なぜ○○は△△だった?」
「もしも□□が××だったら・・・」とかのスレで
思うのだけれど、

「もし、会津の殿様が戦の前に腹を切ってたら、
戊辰戦争はおこらなかった?」
やっぱり攻め入ったかなぁ・・・。

147 :日本@名無史さん:04/05/19 18:15
松平容保が切腹する

藩内穏健派は恭順、西郷頼母以下家老の何名かは追腹

穏健派を惰弱とする急進派(若手、京都派遣組?)が藩内で台頭

嫡子や一門衆を巻き込んで穏健派と急進派が対立

急進派内で篭城玉砕派と脱走徹底抗戦派の二派が対立(忠臣蔵?)

混乱している間に西軍が越後を抜き会津方面へ侵攻

仙台伊達藩降伏

篭城玉砕派腰砕け、降伏開城(精神論者が多数の為、いざとなると…)

白虎隊など一部青少年武士団が領内で蜂起、西軍により鎮圧

脱走徹底抗戦派、仙台へ敗走し榎本脱走艦隊と合流

函館戦争にて壊滅

…となるだろうから、結局史実と余り変わらないのではないかと。
勝手な想像ですが。

148 :日本@名無史さん:04/05/19 18:21
世良修蔵、日本TVの「白虎隊」で泉谷しげるが演じてたよな。
暗殺シーンが余りに惨めだったので、そのイメージがつきまとってる。
小学生のとき観たあの憎たらしい世良のイメージが…。
泉谷演技はうまいな、良い味出してた。
史実は、命乞いして、階下で裸にされて殺された…だったっけか?

149 :日本@名無史さん:04/05/19 20:00
>>148
世羅の殺され方が違うよw。
ちゃんと捕縛されてみんなの見てる前で斬首された。
命乞いと裸で暗殺されたは作り話しですな。

150 :日本@名無史さん:04/05/19 20:18
>>136
山口県といっても周防側は不遇な人が多いよね。
世良とか赤根武人とか。


151 :日本@名無史さん:04/05/19 20:23
戊辰戦争で一番戦闘指揮がうまかったのは誰だろうか。
後の出世ぐあいから見ると桑名の立見鑑三郎の様な気がするんだが。

152 :日本@名無史さん:04/05/19 21:02
>>151
もしかして日露戦争物語に影響されたのか?

153 :日本@名無史さん:04/05/19 21:18
戊辰戦争の小説では会津が主役なので薩長土は悪者扱いだよな。

154 :薩摩出身者:04/05/20 03:23
>>147
丁寧な推察ありがとう。
単純に、松平公が腹を切ってさえいればあるいは・・・
と思ってたんだけどね。
やっぱり残った腹心に交戦の意思があれば、
戦争回避は難しそうだなぁ。

初めて戊辰戦争を知ったときは
「なんで幕府は交戦体制をとる会津をとめなかったのか」
と思ったもんだけど。

155 :日本@名無史さん:04/05/20 17:38
>154
大政奉還したのに、
あの存在が罪である益満休ノ助、伊牟田尚平、相楽総三らを
使って仕掛けたんでしょ。

156 :日本@名無史さん:04/05/20 18:54
>>135
政府軍の場合、まず弱小藩を叩いてから日和見藩の恭順を狙う、という一貫した方針があったから
戦力をピンポイントで集中させられたけど、
同盟軍の場合、藩の打算で動いていた藩が多いし、そもそも軍全体の戦略を決める意志決定組織がなかったから
各藩がバラバラに戦っていて結果的に各個撃破されてしまったわけだからね。

実際の所、同盟軍側は防御側としては十分な兵力もあったし、
何より東洋最強の海軍があったのだから、
大村益次郎のような参謀総長的な人材がいればかなり善戦できたんじゃないかな。

157 :日本@名無史さん:04/05/20 22:43
官軍の将の黒田清隆と土方は実際に遭遇したのかな?

158 :日本@名無史さん:04/05/21 17:35
会津って保科正之の頃は強かったんだよね。
どうして弱くなっちゃったの。

159 :日本@名無史さん:04/05/22 00:03
>>158
貧乏だったから

天明の大飢饉で領内が疲弊し、
人肉食いが行われるほど悲惨な状況だったにもかかわらず、
白河藩や米沢藩のような対策は何もしていない無策っぷりだったので、
幕末の頃には藩の財政はガタガタだった。


160 :日本@名無史さん:04/05/23 02:51
吉田寅次郎と宮部鼎三が旅行した時は礼儀正しい子供達と日新館の設備に
驚いたと言うけど…
財政ガタガタじゃだめでつね。
剣と武士道で大砲には勝てないか。



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