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【江上】騎馬民族説は今。。。【波夫】

1 :日本@名無史さん:03/11/11 04:24
今、どうなっておりますか?

騎馬民族は日本を征服したか
http://inoues.net/yamataikoku/mystery/kibaminzoku.html
騎馬民族国家―日本古代史へのアプローチ     江上波夫
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121001478/qid=1068485710/sr=1-4/ref=sr_1_2_4/249-2208796-7626727
騎馬民族は来た!?来ない?!                江上波夫・佐原真
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4096260665/249-2208796-7626727

726 :日本@名無史さん:04/03/27 18:28
ごめん、基本的な質問。

百済建国の扶余系って、公孫氏が2世紀に扶余系の嫁を貰った子孫だよね
扶余という血が入ってるってだけでしょ、これを民族の制覇の話としていいの?
扶余という国が攻め入ったわけでも、扶余民族がせめいったわけでもないよね


727 :日本@名無史さん:04/03/27 18:46
>>725
百済
(B.C.18~A.D.660,678年間31代)
http://www.portnet.ne.jp/~berry/zino/pekche.html

初代 温祚王
高句麗東明王の三男(または次男).慰禮城に国を築き、国名を百済とした。
BC5年に首都を漢山(今の広州)に移す.AD8年に馬韓を併合.

>それならば扶余による百済の建国は途中にある高句麗をすっとばして
>起こっているのだが、こちらの方は「ありえる」のかな?

高句麗の王族が独立したってことになってるが。


728 :日本@名無史さん:04/03/27 18:53
ごめん、 基本的な質問

>>727
12世紀の三国史記がいつから正史扱いになったの?
ただの電波なの?

729 :日本@名無史さん:04/03/27 19:03
>>728
8世紀の日本書紀がいつから正史扱いになったの?
ただの電波なの?

と聞くのと同じようなものだと思うが。


730 :日本@名無史さん:04/03/27 20:50
なんだ、電波だったのか・・・残念

日本書紀が正史と認められてる部位は、成立の200年前後のみよ。
成立から1000年も前の記載部は、正史扱いではないんだよ
ただただ、 日本書紀に記載ある準神話扱い

12世紀記載で、歴史的継続のない古代3国について、
1000年以上前の事項について書かれている事を正史扱いするのは
韓国人くらいだろ


731 :日本@名無史さん:04/03/27 21:28
また、嫌韓ウヨか・・・

732 :日本@名無史さん:04/03/27 23:00
>>726
百済の話は「途中の國」という一般論につきあったのだが本来の論議にもどそう。
扶余は285年の第一次滅亡の後、今の沿海州/北朝鮮のヨクソに逃げた。
その後、西晋の援助を受けて王子が満洲中部の旧地に第二王国を再建したが、
全部が旧地にもどったのではなく、ヨクソから南へ向かった勢力があったと思われる。
ヨクソから新羅の北までの半島東海岸はいわゆる「穢」の領域だ。
扶余王の印は「穢王之印」ということでもわかるように扶余と穢は近縁の民族だ。
こうして満洲中部から新羅の北までは、意外に「穢ベルト」がつながっているのだ。
扶余が半島南部まで逃げてきて建国したのはあながち不自然なことではない。
もうひとつ、半島南部とヨクソの間には東海岸沿いの海上交通があった。
扶余は海上ルートで直接、狗耶韓国に来たのではないか、というのが申教授の説。
恐らく、鉄産地/日本列島への門戸という狗耶の重要性も始めから頭にあったのだろう。

733 :日本@名無史さん:04/03/28 00:56



  前方後円墳の歴史、規模、分布を真面目に勉強してから物を言いなされ。




734 :日本@名無史さん:04/03/28 02:00
>>720
>狗耶韓国が扶余によって征服されたのは考古学上の事実。

事実は夫餘と共通する遺物が存在するというだけ。征服云々は「解釈」つまり一説にすぎない。
723のいうとおり加羅諸国すら統一できない国が倭を征服したなどあり得ない。

>扶余による百済の建国は途中にある高句麗をすっとばして起こっている

公孫度の遼東経由だからすっとばしたというか迂回だな。

>>724
>当時の半島は高句麗・百済・新羅・伽耶諸国の抗争時代

3世紀はまだそれには早いだろ。なにか根拠でもあるのか?

735 :日本@名無史さん:04/03/28 02:01
>>725
>古代国家なんて、城市や集落がばくぜんと中心勢力に服属しているだけ。
>城市や集落にかまわなければ、武装勢力が通過するのは自由だ。

それも程度問題だろうに。
近代国家のような国境概念はなくとも領域=面としての勢力圏はあるよ。
少なくとも外国の武装勢力が自由に通行するなどありえないぞ。

>百済の建国は4世紀前半。高句麗はすでに南満州に勢力を伸ばしている。

3世紀の高句麗はまだ遼東郡に時々侵入する程度。南満州に勢力を伸ばしてるとはいえない。
百済は馬韓の伯済国として3世紀にはすでに存在している。

>>726
>公孫氏が2世紀に扶余系の嫁を貰った子孫

逆だよ。夫餘王室が公孫度の娘(妹説もあり)をもらった。
百済を建国した仇台=尉仇台が夫餘王なのだからその勢力は
当然夫餘の集団だったと考えるのが自然。
むろん公孫配下の漢人たちもそれなりにたくさんいただろう。

>>727
それは三国史記に記載の伝説。信憑性はやや劣る。
728、730の言い分は、内容はいいが、728の言葉はまちがい。
電波というのはやや言い過ぎだし、三国史記は半島の正史だよ
(正史というのは正式な歴史書という意味であって、歴史学的に内容が正しいという意味ではない)
嫌韓ウヨよばわりしてる731の方が電波。

736 :日本@名無史さん:04/03/28 02:01
>>725
>古代国家なんて、城市や集落がばくぜんと中心勢力に服属しているだけ。
>城市や集落にかまわなければ、武装勢力が通過するのは自由だ。

それも程度問題だろうに。
近代国家のような国境概念はなくとも領域=面としての勢力圏はあるよ。
少なくとも外国の武装勢力が自由に通行するなどありえないぞ。

>百済の建国は4世紀前半。高句麗はすでに南満州に勢力を伸ばしている。

3世紀の高句麗はまだ遼東郡に時々侵入する程度。南満州に勢力を伸ばしてるとはいえない。
百済は馬韓の伯済国として3世紀にはすでに存在している。

>>726
>公孫氏が2世紀に扶余系の嫁を貰った子孫

逆だよ。夫餘王室が公孫度の娘(妹説もあり)をもらった。
百済を建国した仇台=尉仇台が夫餘王なのだからその勢力は
当然夫餘の集団だったと考えるのが自然。
むろん公孫配下の漢人たちもそれなりにたくさんいただろう。

>>727
それは三国史記に記載の伝説。信憑性はやや劣る。
728、730の言い分は、内容はいいが、728の言葉はまちがい。
電波というのはやや言い過ぎだし、三国史記は半島の正史だよ
(正史というのは正式な歴史書という意味であって、歴史学的に内容が正しいという意味ではない)
嫌韓ウヨよばわりしてる731の方が電波。

737 :日本@名無史さん:04/03/28 02:02
>>732
ループ・・・・・

738 :日本@名無史さん:04/03/28 06:09
>>734
>事実は夫餘と共通する遺物が存在するというだけ。征服云々は「解釈」つまり一説にすぎない。

3世紀末の狗耶韓国で、それまでの王墓が破壊された真上に、晋書東夷伝扶余条に
「有郭無棺」で殉葬を伴う、と書かれた通りの木郭墓が作られる。同時に副葬品が
騎馬文化を伴う北方的なものになる、という変化を「解釈」するのに、やはり「征服」
がもっとも妥当な「一説」だ。

そうでなければ「文化受容」というのだろうが、まだ直接やってきていない高句麗に
備えるのに、騎馬を取り入れるのはよいとして、墓の形式を変え、殉葬を取り入れる必要
があるのかな。

739 :日本@名無史さん:04/03/28 11:18
>>738
ごめん。私は半島の考古学はよく知らないのだが、
同じ夫餘系なら、百済のほうが夫餘本国(?)より金官に
近いんじゃないの?
同じ夫餘系でも、百済は何らかの独自性があって、百済系
の誰かが金官を支配したとは考えられないの?


740 :日本@名無史さん:04/03/28 14:49
>>739
同じ扶余だから、百済系であったとしても構わない。
しかし百済文化は早くから中国の影響を受けているのでないの?
金官の墓制や出土物は素朴かつ実用的で、松花江流域の扶余遺跡と
直接の関係があるとされる。

741 :日本@名無史さん:04/03/28 16:34
文献では百済は夫餘系だが、金官は夫餘系だとは明記されてない。
考古学では金官は夫餘と共通する遺物があるが、
百済と夫餘とでは金官のような共通する遺物があるのか?

742 :日本@名無史さん:04/03/29 05:56
>>741
百済が扶余であることは、史書だけでなく金石文の証拠がある。
金官が扶余であることは、考古学からその可能性が濃厚である。
どちらも物的証拠だから、それでいいではないの?

恐らく、金官の扶余は満洲から直接やって来たから、満洲との共通性を残した。
百済の扶余は中国の影響を強く受けて扶余の特徴が希薄になった。
とうことだろう。

ただ、百済の武器や馬具がどうであったか、は私も知りたい。
というのは、伽耶と倭の武器、馬具は共通性が高いが、これは百済とも
共通するのか、ということが知りたいので。

743 :日本@名無史さん:04/03/29 10:33
金官って任那なの?
それとも、金官を含めた伽耶諸国が任那なの?
よくわからん。



744 :日本@名無史さん:04/03/29 14:16
>>743
任那(広義)は新羅でも百済でもない地域の総称。

1)慕韓(任那4県・熊津など、まだ百済に併合されてなかった馬韓諸国)
2)秦韓(于珍也、啄国、啄淳国、非自伐など新羅に併合されてない辰韓諸国)
3)伴跛国を中心とした弁韓北部の加羅諸国(=狭義の任那)
4)金官国を中心とした弁韓南部の加羅諸国(=狭義の任那)

1+2+3+4=広義の任那

745 :日本@名無史さん:04/03/29 17:14
>>735
>それは三国史記に記載の伝説。信憑性はやや劣る。

ふーん。
じゃ、どの辺から史実と考えていいの?
肖古王あたり?
だとすると、2世紀後半ぐらいに建国された?



746 :744:04/03/29 18:37
任那と加羅の関係も紛らわしいな。
伴跛国も金官国も、どっちも任那ともいいどっちも加羅ともいうから。
---------------------------------------
任那の語源は「君主の港(主浦)」を意味する古代朝鮮語として
狗邪国(金官)とする説もあるが
そうではなく3世紀の弁辰の弥烏馬邪国(慶尚北道の高霊)が語源だろう。
これは半路国と隣接していた。(路は跛の誤写と思われ)
3世紀には半路国・安邪国・狗邪国の3国がならんで弁韓諸国の中心的存在だった。
(弁韓の弁は半路国の半と同音で、弁韓とは半路国を中心とする韓の意味)

新羅は6邑の連合体、金官は4邑の連合体だったが、同じように5〜6世紀の
伴跛国(=大加羅)も、もとは半路国と弥烏馬邪国が連結してできたものだろう。

後に弁韓諸国の主導権が加羅(狗邪国=金官)に移ったために
弁韓諸国をも「加羅」と総称するようになった。その後、
伴跛国を中心とする北部連合と金官(駕洛国)を中心とする南部連合に分かれたが、
どちらも加羅の名をもつことになった。

「狭義の任那」の用例としては倭王武の上表文に任那・加羅・慕韓・秦韓
の4者を並列しているのがそれ。この場合の任那と加羅は、
任那が金官を中心とする南部連合で、加羅が伴跛を中心とする北部連合。
翌479年に加羅王荷知が中国に朝貢しているが、これは伴跛国であって金官国ではない
と考えられている。

日本書紀には6世紀の段階として「任那十国」という言葉があるが、
これはすでに金官国が新羅に併合された後の国々。
一応、北部連合の盟主だった加羅国(伴跛国)や
金官滅亡後に南部連合の中心だった安羅国も入っているが
すでに北部連合も南部連合も瓦解した後の残存した国々の総称であり、
言葉としては「広義の任那」の用法。

747 :日本@名無史さん:04/03/29 18:48
>>745
いや、「どのあたりから」という問題じゃなくて
百済建国の経緯が、中国の歴史書に記載の話と半島の伝説には食い違いが
甚だしく、まったくちがった内容になっている。なので、三国史記の
百済建国伝説を史実であるかのように扱うのは危険だということ。
とくに朱蒙は伝説上の存在だし初期のストーリーもほとんど神話。
百済建国の事情は三国史記でなく中国の歴史書の記述から推測すべき。

かといって、通常は近肖古王あたりからは中国の歴史書との齟齬が少なく
なってくるので、このへんから史実性が高くなってくると考えられては
いるが、べつに近肖古王の時に建国したということにはならないだろうね。


748 :日本@名無史さん:04/03/29 19:28
NCBの石澤さん、かわいい。

749 :日本@名無史さん:04/03/29 19:41
>>747
別に、初期の伝説(神話?)が事実だと思っているわけではないが。
ただ、建国当初、小国だとすれば中国の史書に記載されていない
可能性はあると思うが。



750 :日本@名無史さん:04/03/29 20:38
もともとは満州あたりの北方まで南方モンゴロイドが住んでいたが、
6000年前頃からシベリアから北方モンゴロイドが南下して来て混血した
のが満州人や華北人、華中人である。外見的、形質的には南方系が強い
ようには見えないだろうが、これらは北方と南方が混血したものである。
むしろ日本人の方が南方モンゴロイドに見えるだろうが、実は全くの
北方モンゴロイドなのである。これは日本人がシベリアから樺太に
移動したのが2〜3年前の温暖な時期だったために新モンゴロイド化
しなかったからで北方系の古モンゴロイドだからである。

gm遺伝子マップで、南方系の強い満州人の間をかい潜って、朝鮮人の
基礎を作っている北方モンゴロイドがシベリアから朝鮮半島に入って
きたように見えるかな?それはしごく至難のワザだよ。

南の日本から北方モンゴロイドが朝鮮半島に入って朝鮮人の基礎を造り、
北から南方と北方の混血モンゴロイドたる満州人が南下して混血して
誕生したのが朝鮮人である。

751 :日本@名無史さん:04/03/29 20:39
日本人と朝鮮人の遺伝子をしっかり確認してみよう。
朝鮮人は日本から渡った事がよく分かる。

シベリア → 樺太 → 日本列島 → → 朝鮮半島 ← ← 満州

http://www3.mahoroba.ne.jp/~npa/narayaku/image/dna_map.jpg

752 :日本@名無史さん:04/03/29 23:53
どうでもいいが、12世紀記載の文献の正史に値する部位は、10世紀からと
みるべきであって、それ以前についてはなんの価値もない。
そういう常識が判らん奴が多いね。
しかも、中国正史との整合性もない。話にならん。 

扶余の話は、中国正史に三国史記を絡ませるから
ぐちゃぐちゃになりやすい。 今後の論述に
三国史記出典 は一切禁止を勧める。

753 :747:04/03/30 01:55
>>749
は?
なにをいってるのかよくわからんな。中国の歴史書に現に書かれてるじゃんよ。
中国の歴史書に書かれてない可能性を心配する藻前は何者?

>>752
そんなことはない。三国史記であっても、中国の正史とも日本書紀とも
整合する部分はあるわけで、100%デタラメなわけではない。

まぁいいたいことには結果的にはほぼ同意せざるを得ないけど、
まずは具体論の場で個別にいえばいいことだと思うよ。
基礎のわからない奴にはそういう一般論いっても反発するだけだから。

754 :日本@名無史さん:04/03/30 04:57
>>752
>どうでもいいが、12世紀記載の文献の正史に値する部位は、10世紀からと
>みるべきであって、それ以前についてはなんの価値もない。

そんなことはない。一般的に広げすぎじゃないの?
たとえば「史記」に殷王朝の系譜の記載があるが、ほぼ正しいことがわかっている。
確かに、100%記載されている部分が正しいわけではないが、「なんの価値もない。 」
というのは言い過ぎだ。

>扶余の話は、中国正史に三国史記を絡ませるから ぐちゃぐちゃになりやすい。

別に中国正史が絶対的に正しいとも思わない。 
特に、中国国内についての記載はともかく、国外についての記載については、
正しくない(適切ではない)と思われる場合もある。
だから、「魏志倭人伝」の記載についてはいまだに論争が絶えないのでは?


755 :日本@名無史さん:04/03/30 05:32
>>753
>中国の歴史書に書かれてない可能性を心配する藻前は何者?

ん?
百済がいつ頃成立したか、明確に記載されている「中国の歴史書」って
あるのか?


756 :日本@名無史さん:04/03/30 08:30


 倭 王 武 の 上 表 文 は、 中 国 の 創 作 な の か ?


それとも読んだことが無いのか、これを?

中身から状況把握が出来ないのか?

757 :753:04/03/30 09:33
>>755
「明確」なら正しいってもんじゃないぞ。伝説というのは時代を下がるごとに
内容が具体化していくけど、それは真相から遠ざかることでもある。


758 :日本@名無史さん:04/03/30 22:07
ここに書き込んでいるのって院生でつか?

759 :日本@名無史さん:04/03/31 01:02
>>756


   都   合   の   悪   い   事   は   ス   ル   ー



         

760 :日本@名無史さん:04/03/31 04:38
倭王武上表文の話は文脈がわからんな。756はどれへのレスなの?

761 :日本@名無史さん:04/03/31 10:54
倭王武上表文って要約すると「日本と南朝鮮はわしのもんです。」
って言ってるようなもんだろ?
実際は広開土王碑に書かれたとおり、半島の覇を高句麗と競って
いたわけだが。

762 :日本@名無史さん:04/03/31 11:36
>>760
よくわからんが、要するに金官が扶余の残党に征服された話を目いっぱい広げて、
ついでに日本も制覇したっていう、新しい(?)騎馬民族征服説を唱えている香具師
がいて、そりゃ無理ぽと言いたいんだろ?


763 :日本@名無史さん:04/03/31 11:46
倭と高句麗が競っていたのは391年から407年まで。
413年には和解した。
391年以前にも407年以後にも高句麗は
南朝鮮には恒常的な支配を及ぼしたことはない。

倭王武の上表文で高句麗を非難しているのは475年に
高句麗が百済の尉礼城を陥落させ京畿道方面を併合したことをさしている。
これは高句麗と倭の勢力圏の境界がいくらか南下したことを意味する。

764 :-:04/03/31 12:38
もともと3世紀の段階では半島は魏晋の管理下で、
北半分は楽浪・帯方の2郡の直接統治、
南半分は帯方郡を通じて韓族や穢族や倭への間接統治。
三韓の統治においてはもともと倭が重要な存在だったろう。魏が倭に
黄幢を授けたのも倭国内部の騒乱ではなく馬韓の反乱鎮圧のため。

313年に高句麗が楽浪郡を滅ぼして晋が撤退してから
中国にかわって高句麗と倭が半島の南北をわけあう構図になった。
高句麗は晋から楽浪郡を強奪。楽浪・帯方の2郡が消滅したため
倭は晋から三韓の管理を自然に引き継いだ。
そのまま倭王武の上表文にあらわれている5世紀の情況に直結している。

騎馬厨の説では、狗奴国(金官)が夫餘に征服されたのは3世紀末だろ。
(285年かそれよりやや後?)まだ楽浪郡も滅亡する前だから
高句麗と倭の対立よりずっと前だな。
しかし弁韓の中心は魏の頃にはすでに狗奴・安邪・半路であって
その後6世紀まで大きな入れ替わりはないので、そのような大変動は
考えにくい。夫餘の残党が晋や倭の勢力圏を蹂躙して半島を縦断し
征服戦争をしたとは考えられないし、そのようなことがあれば
記録に痕跡が残ってしかるべきだ。
晋は286年に南満州で夫餘王国を再建させているので、同時期に
晋が(倭国も黙認か協力した上で)夫餘の残党の一部を三韓に派遣したか、
倭が(晋の了解をとりつけた上で)夫餘の残党の一部を三韓に招聘したか、
という可能性なら、なくもない。

765 :日本@名無史さん:04/04/01 13:43
>>764
>晋が(倭国も黙認か協力した上で)夫餘の残党の一部を三韓に派遣したか、
>倭が(晋の了解をとりつけた上で)夫餘の残党の一部を三韓に招聘したか、
>という可能性なら、なくもない。

扶余が全体として、そんなに中国に従順だったとは思えないね。
その流れの高句麗は一般に中国と対立して、隋滅亡の原因になったし、
その高句麗が滅亡すれば唐の傀儡国家に甘んじず渤海を建てた一派が
あった。

扶余の286年の再建はまったく晋の軍事力によるのだから、できた國は
傀儡国家と考えるべきだ。それに反撥して独自に行動した一派がいたと考える
方が歴史の常に合っている。

それに晋が「派遣」したのならそれこそ「記録に痕跡」が残るわけだ。



766 :日本@名無史さん:04/04/02 13:27
高句麗と夫餘はもともと仲悪いだろ。夫餘は昔から親中派だし。

魏晋は倭や夫餘の事実上の同盟国であり形式的には宗主国ですらある。
再建してもらってなぜ反発するのだ?どこが自然よ?
仮に、反発して独自に動いた部分があったとしても程度問題。
あんまり極端な(大規模な)軍事行動は歴史に記録が残るだろ。

767 :日本@名無史さん:04/04/04 12:44
>>766
>再建してもらってなぜ反発するのだ?どこが自然よ?

だから渤海の例を示している。
高句麗の滅亡後、その残党は唐に「再建してもらって」遼東の傀儡国家に
なった。
それに飽きたらない独立派が脱走して渤海を建てた。
その渤海の首領は、傀儡国家のある手前、「郡王」しか認められなかったが、
唐にあらがって傀儡国家を滅ぼしたらかえって渤海国王に認められた。
これは独立派の方が強力であり、册封関係も実は独立性の結果である例だ。
誰にとっても独立性は魅力だから、このほうが自然なのだ。

歴史に記録と言ったって、記録する側がわけがわからなくなっている
時代だ。
そのすこし後の広開土王碑の内容だって、なんの歴史書にも残って
いなかったからこそ貴重なのではないか。


768 :日本@名無史さん:04/04/05 21:32



769 :日本@名無史さん:04/04/07 18:20


770 :日本@名無史さん:04/04/23 23:54
韓国で日本式横穴墓群 百済期の15基発掘

韓国の忠清文化財研究院は23日、忠清南道公州の丹芝里遺跡から日本特有の様式
とされる5世紀(百済期)ごろの15基の横穴墓群を発見したことを明らかにした。
同様の墓は5世紀末から8世紀までに九州で多く見られるが、朝鮮半島でこれほどの数
が一度に発見されたのは初めてという。4−7世紀に朝鮮半島南西部で栄えた百済と日
本の交流がうかがわれ、横穴墓の起源を知る上でも貴重な資料になると期待している。
 横穴墓は丘陵地帯にあり、それぞれ約30センチ−約2メートルの羨道(せんどう)を持ち、
遺体を埋葬した奥行き約1−2メートルの玄室の入り口には石で段差を設けた例が多く見
られた。土器や杯、鉄製のおのなどの副葬品なども発見された。
 韓国紙、東亜日報の24日付早版によると、韓国では横穴墓は2000年に公州市で3基が
発見されるなど複数の発掘例がある。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040423-00000268-kyodo-ent

771 :日本@名無史さん:04/05/02 03:15
保守

772 :日本@名無史さん:04/05/02 05:28
>>770
半島南西部は日本領で、後に百済に譲渡されたことが日本書紀にあるが、
そのときそのまま百済王に仕えた倭人豪族もいたのではないか?

773 :松浦ありゃりゃ:04/05/02 05:32
大伴金村の側近豪族などはその典型であろう。

774 :日本@名無史さん:04/05/22 04:10
ようするに、イギリスに侵入して王になったイギリス王が、
故地としてフランス側にも領土を持っていたようなものでしょ。

775 :日本@名無史さん:04/05/22 07:37
>>774
本当に、倭王武の上表文を読んでみなさい。
祖先以来どこをどう征服したのを自慢しているか、よく読めと。

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