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丹羽家ってある意味凄いかも

1 :日本@名無史さん:03/08/25 08:40
信長にこき使われ
秀吉に因縁つけられ
前田に虚仮にされ
徳川にもこき使われつつも
戦国から幕末までしぶとく生き残った
丹羽家について語りません?

丹羽配下出身大名も岩崎丹羽氏も含めて・・・

2 :日本@名無史さん:03/08/25 08:47
月曜の朝にわざわざスレ立てるとは
余程の暇人とお見受けいたす
そういうわけで余裕で
                            2


3 :日本@名無史さん:03/08/25 08:50



4 :日本@名無史さん:03/08/25 08:50




5 :日本@名無史さん:03/08/25 08:50





6 :日本@名無史さん:03/08/25 08:50






7 :日本@名無史さん:03/08/25 08:50







8 :日本@名無史さん:03/08/25 08:50








9 :日本@名無史さん:03/08/26 23:55
マイナーすぎ

はっきり言って華がない

10 :日本@名無史さん:03/08/26 23:58
>>1
すげーってマジで。

11 :v:03/08/26 23:59
http://bbs.1oku.com/bbs/bbs.phtml?id=endou1

12 :日本@名無史さん:03/08/27 11:51
長束正家

13 :日本@名無史さん:03/08/27 11:52
上田主水の子孫は男爵になっている。

14 :日本@名無史さん:03/08/27 18:39
>>13
さらに、宗固流茶道の家元となり、主水がデザインした庭園が和歌山や広島にある。

15 :日本@名無史さん:03/08/27 19:17
>>1
立花に匹敵するね。

16 :日本@名無史さん:03/08/29 21:01
後継ぎの長重が生まれたのは長秀が30代半ばの頃
あと5、6年早く生まれてたら日本史も多少変わったかもしれない・・・


17 :日本@名無史さん:03/08/29 22:48
丹羽より細川の方がよっぽど語り甲斐があるし、凄いと思うが・・・

18 :日本@名無史さん:03/08/30 01:18
丹羽一学がいるじゃないか!

19 :日本@名無史さん:03/08/30 10:11
丹羽は肝心なところで
何があったのかよくわからない
小牧にしても関が原にしても

20 :日本@名無史さん:03/08/30 10:20
関ヶ原の時は、前田を食い止めた。しかし本人に西軍としての自覚があったかは
判らないが。

21 :日本@名無史さん:03/08/30 18:55
長重に西軍の自覚は無かったと思う、むしろ自分は東軍だと
思ってたかもしれない

戦後「前田に讒言された」と憤ってたらしいし




22 :日本@名無史さん:03/08/30 19:10
実は前田に東軍としての意識なかったりして
ほんとうは
前田=西軍 
丹羽=東軍
だったとか

23 :日本@名無史さん:03/08/30 19:31
徳川秀忠とかなり親しかったようだしな。
むしろ単に徳川が好きで、前田が嫌いなだけだったんじゃない。

24 :日本@名無史さん:03/08/30 21:25
つーか、前田が嫌いって言うのも、関ヶ原直前のほんの一時期だけだろ。
疑われたみたいなことでカッとなったくらいの。
人質の利常(利光)も丁重に扱ったつー逸話もあるはずだから。

25 :日本@名無史さん:03/09/01 09:44
前田利常が隠居所に小松城を選んだのも
丹羽での人質生活の居心地がよかったのかもね

松任4万石→家康のとりなし→小松12万石
改易蟄居→秀忠のとりなし→常陸古渡1万石

徳川と丹羽は縁戚関係もないし
接点もあまりないはずなのに
どういうことよ?

26 :日本@名無史さん:03/09/01 12:20
>>25
無茶苦茶、気が合ったんじゃないの?

27 :日本@名無史さん:03/09/01 12:34
関が原が終わったあと
家康のところに前田と一緒に挨拶に来て
前田が「こいつ漏れのことが嫌いだから西軍についただけなんです」とおかげかな?

好かれていたのは間違いない
家康の前田攻め(計画)でも一番近くにいるから先陣を任命してくれとわざわざいいに来るぐらいの律義者だし

28 :日本@名無史さん:03/09/01 12:46
>>25
>>26

・一応、まぁ付き合いは長い
・あっても困らない


ただ、>>27さんの
>家康の前田攻め(計画)でも一番近くにいるから先陣を任命してくれとわざわざいいに来る
これなんかは大きいだろうね。
でも「律儀」とは違うだろうねぇ。
そこで先陣断ると即、敵じゃん(笑)




岩崎丹羽ってよくわからないなぁ。

29 :日本@名無史さん:03/09/01 19:56
丹羽長重と徳川秀忠は男色関係だったと何かで読んだ気がするんだけどなあ。
何だったかな……

30 :日本@名無史さん:03/09/01 21:52


       ああ、俺の苗字だ・・・・・・・・・・・・・・・










31 :日本@名無史さん:03/09/01 22:06
>>30
急いで裏庭にニワトリを買うように。

32 :日本@名無史さん:03/09/01 22:13
うちの庭には二羽鶏がいた。。。。。。。。。。

33 :日本@名無史さん:03/09/01 22:13
徳川秀忠は外様でも自分と仲のよい連中はいろいろひいきしていた。
立花宗茂がその筆頭。

34 :日本@名無史さん:03/09/01 22:22
丹羽丹羽丹羽丹羽鶏がいる。

35 :日本@名無史さん:03/09/02 01:25
前田と丹羽の仲の悪さは江戸時代は
相当のものだったようですな
幕府も両家が顔を合わさないよう
配慮していたようだが
利長と長重は奥さん同士が姉妹の
義兄弟なのにね
今も仲が悪いのかな



36 :日本@名無史さん:03/09/02 01:34
京極家いや藤堂家の分家だっけ。。。
名張藩主って丹羽家の子孫だよね
たしか養子に行ったとかで
                           

37 :日本@名無史さん:03/09/02 03:32
丹羽長秀の三男藤堂高吉でつね
最初羽柴秀長の養子になったが
秀吉が別の子を用意して一悶着
あって藤堂高虎が引き取ったと

つーか丹羽に返せよな

高虎が築城名人になったのは
丹羽との関係もあったりして

38 : :03/09/02 12:33
っていうか・・
      ____
     /∵∴∵∴\
    /∵∴/∴∵\\
   /∵∴<・>∴∴.<・>|    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   |∵∵∵/ ●\∵|     工事現場の警備員って勉強しなかった人間がやる
   |∵∵ /三 | 三| |    罰ゲームみたいな仕事だと思う。
   |∵∵ |\_|_/| |  <のび太が宿題忘れて廊下に立たされるのと同じ感じ 
    \∵ | \__ノ .|/   \_____________
   / \|___/\
  │ ∴∵━━○━∴│
  │∵∴/___\: |
   | :/∵|  \_/ ||_|
   ○ |∴ \____/ |_)
     |∵∴∵Λ∵∴/
    ( ̄ ̄ ̄)( ̄ ̄)


39 :日本@名無史さん:03/09/02 13:59
>>37
高虎の実子、高次が生まれた後も養子の高吉とは上手くいってたらしい

40 :日本@名無史さん:03/09/02 14:04
丹羽氏勝も語ろうぜ

41 :日本@名無史さん:03/09/02 16:24
岩崎城が近くにあります。
ついでに、丹羽の苗字のついた商店が岩崎城の近くにありました。

42 :日本@名無史さん:03/09/02 18:36
譜代大名の丹羽家ですね
もともと織田家臣だったようですが

43 :日本@名無史さん:03/09/02 19:31
>>30
苗字が一緒だからといって関係ないよ。
知り合いの丹羽君の家は農家で明治新姓。

44 :日本@名無史さん:03/09/02 19:32
>>38
これで確実に事故は減り死者は減る。

45 :日本@名無史さん:03/09/02 19:37
愛知にはその田舎全体の百姓の姓が全部「丹羽」ってところが
あるという。

46 :日本@名無史さん:03/09/02 20:33
岩崎丹羽家の人々は地味に活躍してるよな

47 :日本@名無史さん:03/09/02 20:59
>>41
岩崎城・・・・
今はコンクリートだな。
オレの実家も近くだよ、ご近所さんかな。

48 :日本@名無史さん:03/09/04 02:55
>>43

うちも農家だ・・・・・・

49 :日本@名無史さん:03/09/04 15:20
長秀の奥さんのお墓どこにあるか
誰か知らないか?

50 :丹羽の杏ちゃん:03/09/05 21:09
霞が城の裏っ側にあるよん♪

51 :日本@名無史さん:03/09/06 12:58
霞が城って二本松だよね
裏っ側ってどっち側なんだろう
菩提寺の大隣寺は表側っぽいし


52 :日本@名無史さん:03/09/06 22:08
丹羽って三草藩だっけ?俺の故郷がそこなもんで、少し興味があるなぁ

53 :日本@名無史さん:03/09/06 22:09
丹羽つきの家っていいよね!!

54 :日本@名無史さん:03/09/06 22:47
江口まさよし萌え

55 :日本@名無史さん:03/09/06 23:22
江戸時代を通じてほとんど目立たなかったけど、
幕末・戊辰ではほんの少し目立った。
外様なのに会津に義理を立てて城丸焼け家臣討ち死に。
もっとも殿様はその前に逃げちゃったけど。w

結果的に家康秀忠に受けた恩を返すことにはなったし、
二本松少年隊をはじめ、戦いぶりは敵だった西軍からも
賞賛されているけど、何も最後まで藩祖に習って律儀でなくても。w

そんな経緯なんで、漏れはけっこう丹羽家というか
二本松藩は好きだな。





56 :日本@名無史さん:03/09/06 23:34
>55
逃げたんじゃくて逃がしたの。
家臣は身を盾にしてでも殿様を守る。
これが江戸期の武士道。

57 :日本@名無史さん:03/09/06 23:48
>>56
わかりますた

58 :日本@名無史さん:03/09/07 00:17
戒石銘マンセー!

59 :日本@名無史さん:03/09/07 00:18
>56
江戸期ではなく戦国の武士道
 江戸期に堕落しなかったということ
 

60 :日本@名無史さん:03/09/07 00:20
>>59
お前はもっとちゃんと勉強したほうがいい。

61 :日本@名無史さん:03/09/07 00:43
このスレは江口まさよしスレになりました。
みなさんよろしこ

62 :日本@名無史さん:03/09/07 02:13
その江口正吉について教えてくれ

63 :日本@名無史さん:03/09/07 03:21


二本松少年隊だけはガチ!!


勘違い迷惑DQN集団「会津白虎隊」とは比較にならない。




64 :日本@名無史さん:03/09/07 03:28
うまいこと加賀で百万石もらった前田家が妬ましくてしょうがなかったんだろうな。

65 :日本@名無史さん:03/09/07 07:34
>>64
しかし結局前田は丹羽の石高に届かなかった。

66 :丹羽の杏ちゃん:03/09/07 08:47
>>40
氏勝と息子の氏職はなかなか使えるやつだよ。
横山の戦いでは、三十挺従えた鉄砲隊で信長を
敗退させてる。
天文20年前後に鉄砲隊使って戦いしている奴は
そういないだろ?





67 :日本@名無史さん:03/09/07 16:47
>>64
芳春院が江戸に行かず
前田討伐が実施されていたら
少なくとも加賀一国は丹羽のもの
になったかもしれない

68 :日本@名無史さん:03/09/08 12:32
長秀について語る奴が少ない

(´・ω・`)ショボーン

69 :日本@名無史さん:03/09/08 12:33
羽柴越前守長秀
羽柴小一郎長秀

似ている。
二人とも
羽柴長秀だった時期はあるのだろうか?

70 :日本@名無史さん:03/09/08 13:08
羽柴長秀の三男が羽柴長秀の養子に・・・

うーわけわからん

71 :日本@名無史さん:03/09/08 18:17
丹羽家の家臣団について語りましょう

72 :日本@名無史さん:03/09/08 18:31
>>70
子供は親が替わったことを気にしなくて好いから便利だ。

73 :日本@名無史さん:03/09/08 19:53
長秀が死ぬ間際に自分の腹切って腫瘍を取り出し
秀吉に見せたって話はどこまでがホントなのだろう?

74 :日本@名無史さん:03/09/08 20:11
戦国武将のそのテの逸話はたいていウソだと思うが

75 :日本@名無史さん:03/09/08 21:11
>>68
みんな長秀ネタは飽きてる

丹羽氏次最強神話

76 :日本@名無史さん:03/09/08 21:53
山口宗永がもう少し持ちこたえることが出来ていれば、
加賀は丹羽家のもの。

77 :日本@名無史さん:03/09/09 00:30
あれでもかなり善戦した方だと思うが>宗永
彼は検地の名人だったらしいな。惜しい人材だ。

78 :日本@名無史さん:03/09/09 14:28
>>69-70
一般的に「豊臣秀長」で知られる”羽柴長秀”は、天正12年(1584年)6月頃までの名乗りのようです。
ttp://plaza2.mbn.or.jp/~nari/faq49.html
のちの藤堂高吉が秀長の養子になったのは1582年だそうな。
ttp://tikugo.cool.ne.jp/osaka/busho/toudou/b-toudou-yosi.html
丹羽長秀が「羽柴長秀」といつから名乗らされていたのか。。。微妙なタイミングだね。

話を中断して申し訳ござらん。

79 :日本@名無史さん:03/09/09 22:44
二本松では節分に「鬼は外」(お丹羽外)とは言わないそうです。
いまでもその名残が残っているみたい。




80 :丹羽光重:03/09/11 00:19
だれか余についても語ってくれ

81 :日本@名無史さん:03/09/11 02:03
>>80
貴君についてはここで詳しく説明されておるぞえ
http://www.city.nihonmatsu.fukushima.jp/history/jinbutu/niwa.html

それにしても
>正室・報恩院は織田信長の息女で、長重との間に長男、次男をもうけたもの
>のともに早世。報恩院の勝気で嫉妬深い性格を案じた長重は宮松丸の誕生を
>隠し、家臣に預けました。
・・・どこかで聞いたような話だ罠(w
そういえば「あの人」も織田信長の姪に当たるんだったな・・・

82 :日本@名無史さん:03/09/11 22:55
丹羽長重って「北陸の関ヶ原」と言われる前田家との因縁の攻防があったんだね。
ぐぐってる途中で見つけたんだけど。。。
こんなおもしろい話があったのに『利家とまつ』ではその辺も一切省略されていたなあ(つд`)

>>35
長重と利長の間にその「北陸の関ヶ原」の際に微妙な行き違いがあったようでつ。
お互いに家康を意識して牽制し合っている間に、それが戦争になり・・・おおこわ。

あと、長重と利長の奥さんが姉妹(信長の娘)というのも、逆効果だったようでつ。
長重が利長に妙に対抗意識があったとか。と言う話をなんかの本で読んだ。

83 :日本@名無史さん:03/09/13 19:16
>>81
あの人というと長重の母の深光院のことですか

赤穂浪士で有名な浅野内匠頭は丹羽長重の曾孫だったような・・・
違うかな?

84 :日本@名無史さん:03/09/13 19:27
>>83
あの人とは徳川秀忠夫人だと思うぞ。

85 :81:03/09/13 22:12
そうです、徳川秀忠夫人・小督のことです。
>>84様フォローサンクス

86 :日本@名無史さん:03/09/13 22:54
浅野内匠頭の一件の報告を受けた丹羽光重は病床に臥していたが
「斬りつけたから失敗したのだ。刀はこのように突いて使うのだ」と憤り、
床から起き上がり刀を畳に突き立てたという。
(畳を突いたのは脚色された話だろうが)

ただ、この時の「刀を持ったら突け」という光重の教えは
その後も藩士代々に連綿と受け継がれ、幕末の二本松少年隊も
西軍との刀戦ではすべて突きに行った。
それで長州藩士を実際に倒しているのだから、教えとは恐ろしい。



87 :日本@名無史さん:03/09/13 23:31
>>80
丹羽光重と織田信長の息女の縁談は、信長の死後に
秀吉のなかだちで決まった。

88 :日本@名無史さん:03/09/14 00:00
>>87
しょーもないつっこみだが
光重じゃなくてオヤジの長重じゃねーの?

ちなみに光重の奥さんてどこからお嫁に来たのかねえ

89 :日本@名無史さん:03/09/14 07:11
>88
光重の正室は上野高崎藩主・安藤重長の娘。

90 :日本@名無史さん:03/09/14 12:35
わりとご近所からお迎えになられたんですね。。。
安藤重長って謹慎処分になった徳川忠長を預かっていた人なんですね。

91 :日本@名無史さん:03/09/19 02:35
俺が生きてる間に
丹羽家が大河ドラマになる日は







こないな、絶対

92 :日本@名無史さん:03/09/20 07:41
二本松藩上屋敷は衆議院第一議員会館に
下屋敷は東京ガス本社になってるそうだが
中屋敷はどこにあったのでしょう?

93 :日本@名無史さん:03/09/22 22:43
伊藤忠の社長の丹羽さんってこの丹羽と関係・・・無いよな。タブン

94 :日本@名無史さん:03/09/23 00:09
>>93
どうだろう?ないとは言えないかも
それより自民党総裁選にでそこねた
丹羽さんは実は・・・・なんてな


95 :日本@名無史さん:03/09/23 10:28
丹羽長重は本能寺の変の時
何をしてたんだろう
というよりどうやって危機を乗り切ったのか

96 :日本@名無史さん:03/09/23 11:00
親爺と一緒に右往左往してたんじゃない?

97 :日本@名無史さん:03/09/23 11:13
鍋になっていた

98 :日本@名無史さん:03/09/23 12:10
「丹羽長重というのはおかしな男だな」
三成はひとまず、左近の言う「不思議」を棚上げして今年三十歳になる長重の人物評に移った。
「政治的な駆け引きや学芸はまるで駄目だが、合戦だけはなぜかすばらしくうまい」
「父・五郎左どのの地かもしれませぬな。あの人も合戦だけはうまかった」
「そんな血が購えるなら、万金を投げ出しても惜しくないのだがなあ」
三成はちょっと羨ましそうな声をだした。
「とにかく丹羽軍は勝ちました」左近は話をぐいと北陸戦線に引き戻した。
「む」
「ところが、優勢だった丹羽軍はなぜか突然、城内に兵を引いてしまった・・・・」
「勝っていたほうが逃げ出したわけだな」
「御意」
「左近、わしは前言を訂正する。長重に政治力がないといったのは間違いだったようだ」
: (略)

99 :日本@名無史さん:03/09/23 12:11
八月八日、帰国を急ぐ前田軍と、浅井畷で待ち構えていた庭軍との間で激闘が展開された。
長重はこの日も、三成を感嘆させた異能を遺憾なく発揮した。
前田軍は分断され、鉄砲隊のいい標的となった。やっとの思いで反撃に移ると、長重はさっさと
兵を城に収め、義兄を腐らせた。小松城は泥田の中に転がっている、ひどく意地の悪そうな表情を
持った堅城である。城攻めなど思いもよらなかった。
とにかく前田軍はいいようにあしらわれた。格がちがう、そんな感じだった。
しかし、幸いなことに前田軍の死者は少なかった。もっとも被害が大きかった殿軍の長連龍隊でさえ、
死者は三十人前後だった。
利長兄弟は八月十日、金沢に還った。この日以降、肥前は頑として居城を動かなかった。
家康の指令に従い、東西の予定決戦場、美濃に出るためには、まず丹羽と不攻同盟を結ばねばならない。
両家の重臣たちはあわただしく北国街道を往復した。だが、交渉は肝心の人質の人選で、予想通り
暗礁に乗り上げた。時だけが流れた。肥前は深く、隣国の青年の異能を畏れる風であった。
: (略)

100 :日本@名無史さん:03/09/23 12:12
人質といえば、後年利常はよくこう云って、小松城での短い質子生活を懐かしんだそうである。
「そのころわれらは幼少であったので、長重どのはことのほかかわいがってくれた。梨の皮なども
自らむいてくれた。鬼ごっこもした。そのさいは長重どのが必ず鬼の役をやってくれた」
: (略)

101 :日本@名無史さん:03/09/23 12:27
長束正家・溝口秀勝・戸田重政(勝成)・青山宗勝・上田重安・青木一重・
寺西是成・太田一吉・溝口秀勝・村上義明・・・
信長・秀吉・家康の家臣はかなりの数が大名になりましたが、
丹羽長秀の家臣が大名になった数は上記トップ3に次ぐものがありますね

102 :日本@名無史さん:03/09/23 13:01
>>101
桑山重晴も入るね。
ダブリの溝口秀勝と入れ換えてちょ。

103 :日本@名無史さん:03/09/23 13:21
丹羽家の家臣って、小粒だけど実務に優れているって感じだね。

柴田は実力席次ともに信長家臣ナンバー1だし、明智や滝川も
席次はともかく、軍団としての実力は丹羽以上。
なのに秀吉・家康期に、彼らの家臣が大名になった数が丹羽家を
下回るのは負け組だから陪臣にしかなれないのかな?
それとも有能な家臣が少なかったから?

104 :日本@名無史さん:03/09/23 13:38
馬鹿はいないが、喧嘩は弱そう。

105 :日本@名無史さん:03/09/23 13:49
>>104
戸田重政は交流の幅広い文化人だけど、猛将じゃん

106 :日本@名無史さん:03/09/23 17:41
>>98-100は「群雲、関が原へ」だな

107 :日本@名無史さん:03/09/24 17:05
>>9
まだ初陣には早い年齢だから
佐和山城にいたんじゃないか
あ、でも佐和山は明智に攻められて
落城してるな
どこかに逃げたんだろうな多分



108 :107:03/09/24 17:06
↑は>>95
の間違いです

109 :日本@名無史さん:03/09/24 19:47
江口正吉

110 :日本@名無史さん:03/09/24 22:19
丹羽の家臣がどんどん大名に引き上げられたのは秀吉の政略でもあるでしょ。
むろん本人の能力にもよるが。

長重の代になって大幅な親父の遺領を舌なめずりしながら奪う秀吉。
家臣団はそれぞれ大名格上げに一本釣りされてるから団結して抵抗できない。
豊臣家の人材補充と丹羽家の弱体の巧妙な策の背景かも。

小泉の派閥縦断人事みてーだな。

111 :日本@名無史さん:03/09/24 22:29
村上義明は正確には頼勝が正しい。
義明は文書での確認は取れないそうだ。
信濃の村上氏と同族というのも嘘
可能性としては能島村上氏の一族という
の方が高いらしいが明確なことはわからない。

112 :日本@名無史さん:03/09/25 01:21
村上忠勝との関係は?

113 :日本@名無史さん:03/09/25 02:22
村上義明(?〜1623)
 頼勝・忠勝・義国・正之助・次郎右衛門・周防守・従五位下。
 村上周防守義清の養子、戸田武蔵守氏繁の子。

戸田武蔵守と言えば義明の同僚・勝成(重政)だが、戸田氏繁と言えば
兄の勝隆のこと。
村上義明は戸田勝成の甥?
それとも、勝隆・勝成の父が戸田武蔵守氏繁で、勝隆は名を、勝成は官職を
それぞれ継いだってこと?とすれば、村上義明は勝隆・勝成の兄弟?

114 :日本@名無史さん:03/09/25 03:33
そもそも村上周防守義清ってだれよ

武蔵守って弟の重政のほうでしょ?
兄の勝隆は民部少輔じゃなかったっけ?
忠勝って年齢的に武蔵守の子で合う?

115 :日本@名無史さん:03/09/26 00:59
村上義清って信玄をボコボコにしたあの村上?

116 :日本@名無史さん:03/09/26 01:59
村上義明も村上義清(信濃葛尾城主、のち上杉謙信麾下)も
両方とも周防守と称しているので、ややこしい。

「藩翰譜」「廃絶録」によると、村上義明は村上常陸介義利の子で、
村上義利は「寛政重修諸家譜」によると村上義清の子とある。
「断家譜」によると、村上義明は村上義清の次男としている。

「武家事紀」によると、
村上周防守が戸田武蔵守の末子を養子にしたという記述と、
戸田内記(武蔵守の子)の子が村上周防守の養子となり、
同じく周防守を称したという記述がある。

上記を総合すると、村上義明は、戸田勝成(or内記)の子で、
村上義清(or義利)の養子となった、と考えられるのだが・・・。

117 :日本@名無史さん:03/09/26 06:35
>>114
>武蔵守って弟の重政のほうでしょ?
113さんもそう書いてますよ。

ここでも、村上義明について似たような議論やってますね。
いずれにせよ、戸田勝隆・勝成兄弟の血縁か?
http://www.page.sannet.ne.jp/kotatu/hyo/itiran/murakami/gijiroku/02.htm

118 :日本@名無史さん:03/09/26 08:12
村上義清の養子だとしたら、義明はいつ上杉家を離れ、丹羽家家臣になったのでしょうか?

119 :日本@名無史さん:03/09/26 11:33
D,N.Angel 終わっちゃいましたね

120 :日本@名無史さん:03/09/26 13:02
丹羽よりひかり一族のほうが凄いよ。

121 :日本@名無史さん:03/09/26 14:59
>>118
村上義明が上杉家に仕えていたという資料はない。
ただ、義清が生きていた頃は織田家と上杉家は仲が良かったので、
幅広い交友関係があったといわれる戸田勝成と村上義清が
交流を持ったとしても不思議ではない。
義清の死後、織田と上杉は敵対関係になるので、
義明は幼少のうちに実家に戻されたということなのかもしれない。

122 :日本@名無史さん:03/09/26 17:19
義明じゃなくて頼勝と呼ぼうよ。
織田信勝を信行、真田信繁を幸村と言っているようなもんだよ。

123 :日本@名無史さん:03/09/26 20:03
>>121
> 幅広い交友関係があったといわれる戸田勝成と村上義清が
> 交流を持ったとしても不思議ではない。

それは、全てあなたの思い込みです。


124 :日本@名無史さん:03/09/26 20:29
播磨屋さんとこでは
義明の一族は伊予村上氏の末流の可能性が高いとなってるね。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/murakami.html

125 :日本@名無史さん:03/09/26 23:17
116です。
>>117さんが紹介されたHP拝見しました。
村上氏は国清(義清嫡子)以降は落ちぶれてしまったので、
いろいろと記録が混乱しているようですね。

そのHPで紹介されている「新潟県史」では、
村上周防守頼勝(元和元年没)が、戸田武蔵守の子・忠勝(元和九年没)
を養子として同じく周防守と名乗らせたという解釈のようです。
丹羽家の重臣どうしの養子縁組だし、確かにこれなら無理はない。
江戸時代の資料では、親子2代(頼勝・忠勝)を同一人物と勘違いをして、
1人の「村上義明」の事績としてしまったということなんでしょうか?
しかし、これでは村上頼勝の出自が不明となってしまいます。

>>124さんの紹介している伊予村上氏説は魅力的ですが、ソースが不明です。
播磨屋さんのことですから、単なる思いこみではないんでしょうが・・・。

126 :日本@名無史さん:03/09/27 01:03
>125
>しかし、これでは村上頼勝の出自が不明となってしまいます。

2代で滅んだから不明でもしょうがないんじゃないの?
丹羽家臣の中でもかなり上位だから、それなりの出自はあったんだろうけど。

127 :日本@名無史さん:03/09/27 01:51
>>126
それじゃあ話は終わりだよw
歴史を研究する意味ないよなー

128 :日本@名無史さん:03/09/27 07:29
>127
何氏の出とか興味無くてさぁ(笑

129 :日本@名無史さん:03/09/27 08:32
最初から丹羽家でも家老級の客将的扱いで、丹羽家滅亡後も秀吉から
かなりの領土を与えられ独立させてもらったことを考えると、
出自はそれなりにしっかりしたものだろうね。
地理的なことを考えると、伊予村上より村上義清との関連が強そうな
気がするのだが。

130 :日本@名無史さん:03/09/27 12:02
>>128
興味のあるなしじゃなくて
歴史を研究する意味ないよなーw

131 :日本@名無史さん:03/09/27 13:10
昨日本屋で公卿補任を立読みしたんだけど
源長重ってあった。丹羽って源氏だったのか

それと位階が妙に高いよな俺が見たのは
慶長十二年のあたりだったんだけど
長重より上の位は武家では家康、秀頼、秀忠、上杉景勝
結城秀康くらいだった


132 :日本@名無史さん:03/09/27 14:54
>>131
天正16年の聚楽第行幸記には「松任侍従 豊臣長重」とある。
長重が参議になったのは秀吉の死の直前、慶長3年4月15日のことで、
口宣案には「豊臣長重」とあったらしい(戦国人名辞典)。
公卿補任では慶長12年に初出なので、いつ源姓に変わったのかは不明。

ちなみに公卿補任・慶長12年当時の武家官位

前右大臣 従一位 源家康
右大臣 正二位 豊臣秀頼
前内大臣 正二位 源秀忠
前権中納言 従三位 藤原景勝
前権中納言 従三位 源秀康
前参議 従四位下 源忠興
前参議 従四位下 大江秀元
前参議 従四位下 源長重

上杉景勝・細川忠興・毛利秀元は本姓がそうだとわかるのだが、長重だけはよくわからない。
丹羽氏の祖は、武蔵七党の一つ児玉党で、本姓桓武平氏のはずなのだが・・・。

133 :日本@名無史さん:03/09/27 19:09
村上頼勝は通称が二郎右衛門尉。
伊予能島村上氏も代々二郎右衛門尉を名乗り、家紋も同じ丸に上の字。

勿論これだけでは証拠にならないが。

134 :日本@名無史さん:03/09/27 19:12
南朝の村上義輝とは関係ないだろうか?

135 :日本@名無史さん:03/09/28 01:26
丹羽氏は江戸時代には良峰だったけど。

136 :日本@名無史さん:03/09/28 04:31
丹羽氏の本姓の件ですが、
ひょっとして「惟住氏」が源姓かな…と思って、調べましたがわかりませんでした。
「惟住氏は九州の名族」ってホントなのかなあ?

「古代氏族系譜集成」では武蔵七党児玉党とする系図があります。
一方、1878年(明治11)10月の「華族類別録」によると、

皇別 良峰朝臣 丹羽長裕(陸奥二本松藩主、長秀・長重の子孫)

丹羽氏は、良峰氏となっています。
どちらにしろ、桓武天皇の末裔で、源氏ではありません。
江戸時代のうちに本姓を変えたということなんでしょうか?
とにかく、丹羽家の出自は怪しすぎますね。

137 :日本@名無史さん:03/09/28 10:44
>>136
>ひょっとして「惟住氏」が源姓かな…と思って、調べましたがわかりませんでした。

惟住氏は源姓ではなの?
むしろ惟住は、秦や菅原のように源平藤橘のような姓だと思ってただが

138 :日本@名無史さん:03/09/28 10:45
岩崎の丹羽氏は一色支流の源氏だけど。
その関係かな?

惟住氏は緒方一族じゃなかったっけ?

139 :日本@名無史さん :03/09/28 12:56
丹羽長重の幼名 ・・・・
なかなかいい味出しているぞ!

http://www.aura-press.com/scriba/sb/ssb-niwa-nagashige.htm

140 :日本@名無史さん:03/09/28 12:59
>>139
名付け親は信長か?(w

長秀はお万だぜ(万千代)


141 :日本@名無史さん:03/09/28 13:09
江戸期丹羽家の幼名は代々五郎左です。

142 :日本@名無史さん:03/09/28 13:11
>>141
五郎左は幼名じゃないよ

143 :日本@名無史さん:03/09/28 13:23
>>138
豊後緒方氏は大神姓で、源平合戦で緒方三郎惟栄という人物が活躍しています。
明智光秀の「惟任」、梁田広正の「戸次」は緒方一族(大神姓)のようです。
でも「惟住」は見あたりませんでした。
名前に「惟」がつく人が多く、何か因縁がありそうなのですが…。

144 :日本@名無史さん:03/09/28 13:31
>>136
丹羽長秀の家系が、尾張丹羽郡にたまたま住んでいた単なる地侍なのか、
奈良朝期すでに丹羽臣とみえる丹羽郡丹羽郷の名族・丹羽族なのか、
尾張春日井郡児玉村出身ということで武蔵七党の児玉党、あるいはその児玉党と
同じ児玉郡にいた丹党なのかはわからんけど、
どちらにせよ代々守護の斯波家に仕えてきたということがハッキリしているだけでも、
織豊期の大名としては、まあまあ毛並みのいいほうじゃないかな。
斯波家の家臣なら源氏を称しても全然不都合はないと思われ。


145 :日本@名無史さん:03/09/28 14:17
>>143
「戸次」は大友一族だよ。
「惟任」はもともと緒方一族のある人物実名を信長が名字と間違えたものらしいけど。

>>144
>代々守護の斯波家に仕えてきたということがハッキリしているだけでも
本当にはっきりしてるの?

146 :日本@名無史さん:03/09/29 00:16
丹羽郡に関わって丹羽を名乗った人はいろいろいるけど、長秀は児玉村の
生まれだから児玉党の流れと考えるのが自然だろうね。
尾張愛知郡岩崎城主の丹羽氏識、子氏勝、孫氏次の家系は、一色氏の
庶流がやはり尾張国丹羽郡に流れてきたとき丹羽氏と名を改めたとか。
こうしてみると丹羽郡由来の「丹羽」を名乗る、そこそこ有力な武装
集団が尾張のあちこちにいて、信長の勢力拡大とともに表舞台に
出てきたのが、長秀の家系なんでしょうね。

147 :日本@名無史さん:03/09/30 00:40
こういう穏やかな歴史ファンらしいスレを見ると、ほっとするな

148 :日本@名無史さん:03/10/01 02:29
>>145
大友の重臣に戸次鑑連っていたよね。

149 :日本@名無史さん:03/10/01 02:45
丹羽には二羽鶏がいる

150 :日本@名無史さん:03/10/02 03:13
>>145
 大友家臣として戸次鑑連(立花道雪)が現役で活躍しているのに、
大友一族の戸次姓を信長が家臣に勝手に与えてもいいのかな?
いくら信長でもそんなに無神経なことはしないのでは・・・。
 鎌倉時代初期に、豊後緒方一族の戸次氏の家系は絶えているので、
そちらの名跡を継がせたと考える方が自然ではないかな。

>>146
 児玉党が丹羽郡に流れてきて、地名を名字とするのはわかるけど、
児玉党だから児玉村にするというのはあるのかなあ?

151 :日本@名無史さん:03/10/02 08:26
>>150
丹羽は郡、児玉は村。
ある場所に特定の集団が住み着き、村レベルの集落を作ったとき、
その集団が昔住んでいた地名をつけたり、その集団が血族集団なら
その一族の名前を逆に地名につけることはいくらでもありますよ。

152 :日本@名無史さん:03/10/02 09:29
>>145
ならば九州の名族でない時任はどうなるの?
名跡を継がしたわけやないだろ。
大体朝廷から賜ったものだからね。一応。

それに貰ったのって「戸次」じゃなくて「別喜」じゃなかったっけ?

153 :日本@名無史さん:03/10/02 12:44
原田は?

154 :26 ◆Y2HNP0UBKg :03/10/02 12:49
>>147
ワラタ

ところで話変わるけど、携帯ゲーム機"プレイステーションポータブル(PSP)

 久夛良木氏は,“PSPはゲーム業界が待ち望んだ究極の携帯機”として説明。「ここまでやるかと言われるスペックを投入した」という。
 発表によれば「PSP」は,曲面描画エンジン機能を有し,3Dグラフィックでゲームが楽しめる。
7.1chによるサラウンド,E3での発表以来,クリエイターたちにリクエストが高かった無線LANも搭載(802.11)。
MPEG-4(ACV)による美しい動画も楽しめるという。これによりゲーム以外の映画などでのニーズも期待する。
 外部端子で将来,GPSやデジタルチューナーにも接続したいとする。
また,久夛良木氏は,繰り返し「コピープロテクトがしっかりしていること」と力説。会場に集まった開発者たちにアピールしていた。
 さらに,ボタン設定なども明らかにされ,PS同様「○△□×」ボタン,R1・L1,アナログスティックが採用される。

この際、スク・エニもGBAからPSPに乗り換えたらどうでしょう。スク・エニの場合、PSPの方が実力を出しやすいような気がするんですが。
任天堂が携帯ゲーム機で圧倒的なシェアをもってるなら、スク・エニがそれを崩してみるのもおもしろいですし。かつて、PS人気の引き金となったFF7のように。

突然こんな事いいだしてスマソ・・・
GBAと比べてみてどうなんですかね?(シェアのことは抜きで)

155 :日本@名無史さん:03/10/02 17:21
亀レスですまんのだが、丹羽家出身大名では上田宗固は万石を食んだが
最終的には浅野家の家老だよね。出世頭は溝口家か。
10万石で分家もあって、明治維新まで生き残り、伯爵に。
子孫は陸軍の少将や貴族院議員に。

丹羽家自体がどのくらいの封土だったのでしょう?
長秀のときは若狭と越前の一部でそんなに、だったけど
長重のときは100万石ぐらいはいってた?(清洲会議の褒賞もかねて)
どなたか詳しい方、フォローお願いします。

156 :日本@名無史さん:03/10/02 17:48
>>155
長秀の時ですでに100万石越えてますが。


157 :日本@名無史さん:03/10/02 18:10
>>156
長秀の所領はどう計算しても100万石ねーよ

158 :日本@名無史さん:03/10/02 18:14

地味


159 :日本@名無史さん:03/10/02 19:31
昔、岩崎城の近くにすんでましたがなかなか良い縄張りでしたよ。
ただ模擬天守は不要でしたが…

160 :日本@名無史さん:03/10/02 20:23
>>157
あるよ

161 :日本@名無史さん:03/10/02 20:28
>>157
「丹羽家譜」によれば越前一国・加賀能美・江沼郡123万石。

162 :日本@名無史さん:03/10/02 21:18
>長秀の所領

以前別スレでこの話題がでたが、、、
「越前一国・加賀能美・江沼郡加増によって123万石になったと『丹羽家譜』などはいう。
だが、それまでの領国若狭と近江二郡は秀吉の家臣に与えられているのでこれは替地であろう。
『慶長三年検地目録』によると越前は50万石、加賀は36万石」

                                     『秀吉戦記』谷口克広

163 :日本@名無史さん:03/10/02 21:35
>>162
じゃ結局、長重の時も100万石越えてないね。

164 :日本@名無史さん:03/10/03 00:57
>>162
関ヶ原合戦の頃の諸侯の石高は結構わかっているので、
そこから逆算して石高を推定してみる。(○は丹羽系大名)

(越前68.2万石)
 青木一矩20
 大谷吉継16
 堀尾吉晴5
 織田秀雄5
 木下頼継2.5
 青木俊矩2
 赤座吉家2
 溝江彦三郎1
○丹羽長正5
○青山宗勝4.6
○戸田勝成2
○奥山重定1.1
○寺西是成1
○上田重安1

(加賀半国19.8万石)
○丹羽長重12.5
 山口正弘6
 山口修弘1.3

 合計88万石

若狭(9)と近江2郡(15)を加えれば、112万石となる。
88万石でも、織豊大名の中では頭抜けた大身であるのは確かだ。

165 :164:03/10/03 01:28
>>162さんへのレスというよりも、
>>155さんへのレスでした。

あと、細かい部分では、丹羽長重の12.5万石は、
石川郡松任4万石を含んでいるので除外した方がいいかもしれない。
その場合、若狭・近江を除いた所領は84万石となるが、
最小限に見積もっても、晩年の前田利家(76.5万石)を上回る待遇
を秀吉から受けていたといえる。

166 :日本@名無史さん:03/10/03 11:37
丹羽系大名といっても与力なわけで一応独立大名でしょ

167 :日本@名無史さん:03/10/04 05:01
そんなことを言えば、勝家も秀吉も家臣の多くは与力なワケですが。


168 :日本@名無史さん:03/10/04 05:44
丹羽長秀以外の丹羽氏って長秀の同族?

169 :日本@名無史さん:03/10/04 10:45
>>167
じゃあ勝家の所領は与力の前田利家の能登、佐々成政の越中、佐久間盛政の加賀
金森長近、原長頼などを含めた全部を言うのか?


170 :日本@名無史さん:03/10/04 11:28
>>167
家臣の多くは与力って…。
具体的に挙げて見ろよ。
そんなにいないから。

171 :日本@名無史さん:03/10/04 12:07
>>168
丹羽長秀は丹羽郡児玉村の住人だが、愛知郡岩崎城を拠点とした
丹羽氏勝という国人がいて、長秀と同じころ信長に仕えている。
氏勝の一族は足利系一色氏の後裔と称しており、完全に別の家だね。
長秀の子孫は陸奥二本松藩主、氏勝の子孫は播磨三草藩主として幕末まで続いている。

172 :日本@名無史さん:03/10/04 12:38
>>167
当時の「与力」は軍事的指揮下におかれると言う意味で、「家臣」とは違う。
「勝家や秀吉の軍団の多くは(譜代の)家臣ではなく(信長直属の)与力だった」
というなら正しいと思うが。

173 :青山久蔵:03/10/04 15:00
>172
おめぇさん、俺を呼んだかい?

174 :日本@名無史さん:03/10/04 15:29
司馬遼の功名が辻でも、山之内一豊が信長直参の秀吉与力(直臣)から
秀吉の直臣(陪臣)に落ちることについて「位が下がるのだから領地を・・・」
みたいな記述あったよね。

>>170
考えた見れば、本能寺以前の秀吉軍で部隊長や幕僚やってた竹中も蜂須賀も
山之内も堀尾も黒田も宮部も与力、または与力から秀吉直臣移行だし、
結構多いんじゃないの?
福島とか加藤とかは旗本で、一部隊率いて戦うレベルじゃなかったし、
尾藤とか神子田とか仙石とか質悪い奴も結構多い

175 :日本@名無史さん:03/10/04 19:10
>>174
小説を引き合いに出すのはやめようよ。
意味ないから。

176 :日本@名無史さん:03/10/04 23:38
>>175
でも直臣--->陪臣の扱いはある意味正しい指摘
俺が直臣--->陪臣になれば、やっぱり格下げと感じるなあ

177 :日本@名無史さん:03/10/05 00:46
丹羽長秀の場合、
やはり直臣--->陪臣のパターンが多いが
(戸田勝成 大島光義 奥山重定 坂井与右衛門 高木左吉)

逆の陪臣--->直臣のパターンもある(溝口秀勝)

178 :日本@名無史さん:03/10/05 01:21
長束正家なんて大出世だよな。
諸侯あつかいに加えて五奉行の一員。
一番石高少ないけど、まあ近江水口だからプラスアファあるけどさ。

179 :日本@名無史さん:03/10/05 03:52
戸田勝成は丹羽、兄の勝隆は秀吉につけられ、秀吉が天下を取ると
二人とも直臣になったんだよね。
同族で勝隆に仕えた戸田為重は、勝隆が跡継ぎがなく所領を没収された後、
秀吉に一万石を与えられ使番頭を勤めたし、同じく秀吉政権下で一万石と
豊臣姓を与えられた戸田豊前守重治も、勝隆・勝成の一族と考えられる。
また浅野家家臣となった戸田勝直も同族っぽい。
勝隆・勝成って三河の戸田氏の流れなのかな?
徳川政権下で松平姓を与えられ、同族扱いで厚遇された信濃松本七万石の
戸田康長は、今川から徳川に乗り換えた戸田重貞の弟忠重の子だけど、
"重"を使っているし、その一族も"重"を使った者が何人かいる。
同じ三河戸田系の氏鉄は、美濃大垣10万石。
もし同族なら、大小名をこれだけだした戸田氏は、まあまあ成功した氏族と
言えるんでしょうね。

180 :日本@名無史さん:03/10/05 04:28
上の方で村上義明が義清の養子って話がでてたけど、
義清の存命中に関係があったんだろうか?
上杉が秀吉と通じたときに秀吉が村上の名を義明に継がせたんで、
国清の方が山浦姓になったって話を聞いたことがあるが…

森→毛利みたいな例もあるんで、勝手に部下に名門の名前をやったのかなって気もするが、
なんだかなあ

181 :日本@名無史さん:03/10/05 04:36
国清が山浦を名乗ったのは謙信の命令では?

182 :日本@名無史さん:03/10/05 04:39
山浦上杉氏の名跡を継いだ。

183 :日本@名無史さん:03/10/05 04:46
義明とは関係ないがググったら浪人の村上氏ってのも出てきたぞ
江戸時代ずっと浪人だったんか?


184 :日本@名無史さん:03/10/05 04:56
はあ?
村上という名字の浪人ぐらいいくらでもいるだろうよ。
どの村上の話だ?

185 :日本@名無史さん:03/10/05 11:07
>>178
長束正家は丹羽の家臣時代に
資料大量に持って秀吉に喧嘩うりに行って
その頭脳を秀吉に買われたそうですな。
関が原時のへたれっぷり(一説には向かってくる連中蹴散らしたりしてたそうだが)を
考えると、この秀吉に直接談判しに行ったときが
彼の人生でもっとも輝いていた時期だろうと思われます。

186 :日本@名無史さん:03/10/05 11:21
>>185
どう考えても、輝いていたのは、五奉行任命直前くらいの時期だろ。
健在の秀吉のもとで、奉行衆として中央政府の財政を切り盛りしていた時に比べれば、
個人の意地を見せた若年時のエピソードなど小指の先のような栄光。
エピソードだけ追っかけて実績がまったく目に入らないのは厨房だからか?


187 :日本@名無史さん:03/10/05 11:23
>185
あんたのカキコには深い味わいがないのだよ!

188 :日本@名無史さん:03/10/06 03:25
>>179
おかげさんで、あの時代周辺で「戸田」が出てくるともうどの戸田なんだか
混乱してしまう。


>>183
>>184
信濃でずっと、本領復帰を唱えながら暮らしてた家のほうじゃない?

>>185
長束スレッドへ来い。
素晴らしいまったりとした世界が待っているぞ。

長束忍者隊!

189 :日本@名無史さん:03/10/06 08:34
>>188
伏見城落としたしね

190 :日本@名無史さん:03/10/06 19:01
丹羽光重だっけ?名君といわれたのは。

191 :日本@名無史さん:03/10/07 16:16
丹羽の直系は、ほぼ中レベル以上のデキ。
バカな子孫のために滅んでいく家系が多い中ではまずまずのところだなあ。
秀吉に「出来が悪いから大領の主は務まらない」といじめられた長重でさえ、
その後の処世を見れば、デキが悪いどころかむしろいいほうだったと思われる。

192 :日本@名無史さん:03/10/07 22:53
>>191
>秀吉に「出来が悪いから大領の主は務まらない」といじめられた
いじめかなあ? その後官位も昇進しているし。
減封の理由は軍律違反でしょ。
丹羽軍は戦争は強かったが、乱暴狼藉がひどかったらしい。
佐々成政のように切腹させられなかっただけ、よかったのかも。

193 :日本@名無史さん:03/10/07 23:21
最終的には諸侯にばらまく封土が不足するからストックとして没収でしょ。
親父が生きているころは遠慮していたが、
長重の代になってこれ幸いと。
大領主を減らすことが豊臣政権の目的でもあったから一石二鳥。
織田宗家なんかと同じく毒にも薬にもならぬ存在にして官位だけは高位に。

194 :日本@名無史さん:03/10/07 23:23
秀吉が長秀亡き後、強引にいちゃもんをつけて丹羽家の力を
削いで行ったのは常識でしょ。
官位上昇は、位打ちという相手の実権を取り上げる際に良く使う
常套手段にすぎないし。
軍律も維持できないようなボンクラ大名に高い官位をやる必要など
ないわけで、それはやはり秀吉の丹羽家攻撃の意図を糊塗するための
ものでしかない。

195 :日本@名無史さん:03/10/07 23:41
>>193
でも織田秀信岐阜13万石は石高こそ少ないが与力の配下小大名
が多く美濃国内にいるし、岐阜という枢要の地を占めている。
実質石高は50万石くらいはあるんじゃないか


196 :日本@名無史さん:03/10/07 23:44
朝鮮でヘマこいた大友氏なんぞは
領土削減どころか取り潰しだもんなあ。
官位とかいってる場合でなくて。
家康が名門好きで高家になれたからいいようなものの。

丹羽長重はがむばった!

197 :日本@名無史さん:03/10/07 23:47
>>195
関ケ原でも、誰も織田秀信に行動を共にしなかったし、与力大名とは
言えないよ。
前田玄以もそういうのとはちょっと違うし、付け家老の百々と木造が
いただけじゃん。
織田常真なんて流刑だしなあ。

198 :日本@名無史さん:03/10/07 23:54
豊臣政権において岐阜なんて枢要の地ではないよ。
要害かもしれないが、内陸の山城というのはきつい。

石高が少なくても要港や鉱山もってる豊臣お気に入り大名のほうがマシ。
まあ、岐阜という織田家の「聖地」に宗家をもってくることで、
理不尽な政権簒奪ではないと世間ウケを狙っただけでしょ。


199 :日本@名無史さん:03/10/08 00:04
秀吉に虐げられつつも怒りを面に出さず、仲が悪い前田家の人質(利常)にやさしく、
取り潰されながらも名門でもなければ徳川家に格別親しいわけでもないのに
一応二桁の石高の大名に復帰した丹羽長重って、もっと評価されてもいいよなあ。
>>100にもある、利常が語る長重像が好感がもてるね。

200 :200:03/10/08 00:09
家康は長秀に恩義があるからね当然だ!

201 :日本@名無史さん:03/10/08 00:16
家康は滝川一益の孫をひいきにして旗本にしたり、
丹羽家を存続させたりと、織田の家老クラスには寛大だよね。
裏をかえせば「出来星」と呼ばれた加藤、福島などの秀吉が濫造した
裏切りも辞さない連中に信を置けなかったのだろう。

たしかに名門好きは有名だね。その恩恵にあずかった香具師は先祖に感謝しる。

202 :日本@名無史さん:03/10/08 00:21
>>199
しかしこの小説以外にはっきりした記述あるの?
ひょっとしたら稚児趣味がすごく強い人だったりしてw

203 :日本@名無史さん:03/10/08 00:44
>>202
出典は忘れたが、利常が長重の小松城人質時代について語ったものの中に
出てくる逸話だよ。
俺は寝るからググってくれ。

204 :日本@名無史さん:03/10/08 01:05
Q1
もし光秀が謀叛せず、信長が天下統一したなら勝家・長秀・秀吉・光秀・一益・恒興、
 そして家康には何万石が与えられたのだろう?(あるいは追放?)

Q2
 信長が天下統一したとして、例えば長秀ら軍団長格が数十万〜百以上の
 大領を与えられた場合に、その人物が隠居・死亡したら信長はその後継者が
 その封地をそのまま相続するの許すだろうか?



205 :日本@名無史さん:03/10/08 07:30
戊辰戦争で活躍した丹羽一学って藩主の一族なんですか?

206 :日本@名無史さん:03/10/08 11:57
そうです。
分家で家臣です。

207 :日本@名無史さん:03/10/08 23:10
>>200
家康が長秀に恩???
なんかエピソードあったっけ。

208 :日本@名無史さん:03/10/09 01:12
>>207
長秀と家康は接点あんまりないよな

強いて言うなら姉川の戦いで朝倉軍の
猛攻で窮地に陥った徳川軍を救援したのが
丹羽と池田

あとは本能寺の変の直前、長秀は家康一行の
饗応を担当したくらいか

209 :日本@名無史さん:03/10/09 11:14
>201
むしろ長重は秀忠と懇意にしているようだ。
大名復帰も秀忠のとりなしがあったらしいし。
どういうきっかけでそうなったのかは知らんが。

210 :日本@名無史さん:03/10/09 13:04
丹羽家は江戸時代中期、
嗣子断絶したがちょっと遠い分家から
嗣子を迎えあっさり存続している
その分家は江戸の町奉行を経験した家らしい

あと隣藩で一揆が起こってその藩が丹羽預かり
になるとすぐに鎮まったそうな(ほんまかいな)

211 :日本@名無史さん:03/10/09 23:51
家康の死後、秀忠は次のメンバーを御咄衆とした。
 丹羽長重
 佐久間安政(盛政の弟)
 立花宗茂
 細川昌興(忠興の弟)
 猪子一時(元・信長の馬廻)
 三好一任(為三入道)
 堀田一継(元・秀吉の鷹匠頭)
 能勢頼次(元・明智光秀の臣)
このうち、丹羽と立花は10万石の大名に取り立てられる。
よほど気に入られたらしい。

212 :日本@名無史さん:03/10/10 00:24
猪子一時って二条御所で死んだのかと思ってたよ

213 : :03/10/10 00:53
三好為三は、三好長慶・三好三人衆と戦ってた男だよね。
こいつも息が長いなあ。
信長が京に入る前から、幕府の覇権を巡って戦ってきたんだから。

214 :日本@名無史さん:03/10/10 03:12
>>211>>212
一時が誰かは知りませんが、猪子兵助は二人いて、親子と考えられます。
道三から信長に付けられた方は、本能寺の変で討ち死にしています。
秀忠に仕えた方は、息子の方です。

215 :日本@名無史さん:03/10/10 03:22
>>214

猪子高就 ?〜1582
 兵介・高然。二条御所で死亡

猪子一時 1542〜1626
 三左衛門・従五位下・内匠助。信長の赤母衣衆。関ケ原役では西軍から東軍へ寝返った。

猪子一日 1570〜1617
 一時の息子。秀吉、前田利家に仕え、慶長19年(1614)からは徳川氏に仕えた。

216 :日本@名無史さん:03/10/10 08:51
>>213
三好は三好三人衆の一人も大阪の陣まで生きてるし、長慶も長生き・・・
謀殺されたりしなければ長命な家系なのかも

217 :日本@名無史さん:03/10/10 11:50
>>215
何がいいたいんだ?
コピペだけじゃわからんだろ、ふつう。

218 :日本@名無史さん:03/10/10 19:30
詳しく紹介してみただけなんだろ
そうカリカリすんなや

219 :日本@名無史さん:03/10/10 19:39
まあまあみなさん
丹羽家のようにマターリ行きましょ

220 :日本@名無史さん:03/10/10 21:15
織田の軍団長クラスで明治まで大名だったんは丹羽だけ?
5大軍団長?あ、荒木入れて6人なのかな?
六大将軍とかいうと悪の組織の大幹部みたいで笑えるよね

221 :日本@名無史さん:03/10/10 23:34
第六天魔王の部下なんだから6つで丁度いいんじゃないの?
>>216
長慶はおせじにも長生きとは言えないと思う…

222 :日本@名無史さん:03/10/11 01:20
>>216
政康と政勝のことを言いたいのだろう

223 :日本@名無史さん:03/10/11 02:56
>>218
ぜんぜん詳しくないだろw

224 :日本@名無史さん:03/10/11 02:59
つまり>>215が正しく、>>214が間違っているなら、徳川家に仕えたのは
一時・一日親子で兵介高就ではないということ?

225 :日本@名無史さん:03/10/11 09:12
>>224
そういうこと。
猪子高就(兵介)と猪子一時(次左衛門・内匠)、2人とも信長の側近であり、
猪子兵介は信長公記の道三・信長の対面時の斎藤家臣として登場するので、
2人が親子(高就が父、一時が子)という説が出たものと思われる。
寛政譜によると、一時の父は織田信清に仕えて犬山で戦死しているので、
親子の可能性は低いが、一時には兵助一俊という弟がいるので、
2人が兄弟という可能性はある。

226 :日本@名無史さん:03/10/11 09:44
>>222
スレ違いだが、この2人は長生きだよな。

三好政康(三好三人衆、清海入道、豊臣家に仕え大阪の陣で戦死)
三好政勝(三好長慶と抗争、為三入道、徳川家に仕え96歳まで生きる)

なんで真田十勇士にされちゃったんだろう・・・。

227 :日本@名無史さん:03/10/11 09:51
>226
モデルにされたそうです。

228 :日本@名無史さん:03/10/11 10:26
このスレで昔話題となった村上頼勝(義明)だが、
賤ヶ岳合戦までは柴田勝家に属していたらしい。
加賀藩の富田景周の「越登賀三州志」によると、
加賀平定後に次の諸将が配置された(天正8年閏12月)。

 金沢城・石川郡・川北郡=佐久間盛政
 松任城=徳山則秀
 小松城=村上頼勝
 別宮城=吉原二郎兵衛
 二曲城=毛利九郎兵衛
 御幸塚城=徳山少左衛門
 三堂山城=安井左近
 大聖寺城=拝郷五左衛門

佐久間・徳山は勝家の与力で、毛利・安井・拝郷は勝家の家臣なので、
村上・吉原も勝家の与力か家臣ではないかと推定される。
賤ヶ岳合戦のとき勝家につかず、秀吉に味方したのだろうか?

229 :日本@名無史さん:03/10/11 10:59
>>228
越登賀三州志自体江戸時代に作られた軍記物でしょ


230 :日本@名無史さん:03/10/11 11:37
越登賀三州志は通称「三州志」。18C末〜19C初に成立した、
「来因概観」「古墟考」など6部39巻から成る膨大な歴史・地理書。
著者の富田権左景周は,2,500石の加賀藩士で、
加越能三カ国および前田家の歴史・地理に関する著述を多く残した。

いわゆる郷土史であって、軍記物とは違うんじゃないかな。

231 :日本@名無史さん:03/10/11 11:44
でも史料としては参考程度だね

232 :日本@名無史さん:03/10/11 11:47
小牧長久手に出陣したのは長秀?長重?
長秀は病気っぽいし
長重は幼すぎる気がするし
出した兵も所領の割に少なすぎるような気がする

ホントに兵を出したのかな

羽柴と徳川どっちが勝つか洞ヶ峠を決め込んだとか
・・・なんてな


233 :日本@名無史さん:03/10/11 15:21
>>231
>でも史料としては参考程度だね

まあ、成立年代からしてかなり後世だし、
全面的には依存できないのは確か。
ただ村上頼勝の場合、
丹羽長秀の家臣として加賀小松城主
となるまでの経歴が全くわからないので
補完する材料にはなると思う。


234 :日本@名無史さん:03/10/11 20:02
>>232
どっちも出なかったんじゃないの?
家老クラスを代人として兵をつけてやれば、全然問題なし。



235 :日本@名無史さん:03/10/12 08:58
江戸中町奉行所

236 :日本@名無史さん:03/10/12 18:01
http://www.city.nihonmatsu.fukushima.jp/history/jinbutu/niwa.html
ほい、二本松初代藩主。

237 :日本@名無史さん:03/10/12 18:03
丹羽

238 :日本@名無史さん:03/10/12 20:12
>>232
「羽柴秀吉陣立書」(浅野家文書)に
「五郎左衛門尉殿 三千」とあります。
そのころ長秀は「惟住越前守」と呼ばれていましたから、
これは長重を指していると思われます。
ただし、年少であることを配慮してか、
東の備の一番後ろに配備されています。

当時、秀吉は加賀の一揆の蜂起を警戒しており、
長秀・利家に連携を呼びかけています(天正12年3月)。
小牧に出した兵力が少ないのもそのためだと思われます。

239 :日本@名無史さん:03/10/13 02:39
無能で活躍もせず、秀吉にコビを売ったかと思えば拗ねて腹を切るような
長秀なんかつまらない。
織田家臣については、こっちのスレに統一しましょう

 http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1064379930/l50

240 :日本@名無史さん:03/10/13 11:53
>>239
おひおひ、「無能で活躍もせず、秀吉にコビを売った」って誰のことだよ。
長秀について、どの史料をどう読めばそうなるのだ?
まさか小説を史実と思っているんじゃないだろうな。

>織田家臣については、こっちのスレに統一しましょう

そっちは、一益がカズマスかイチマスかで延々論争している
厨房スレだからやめた方がいいぞ。

241 :日本@名無史さん:03/10/13 15:12
>>240
そのスレで論破された香具師が
読み方問題をうやむやにさせるために誘導貼ったんじゃねーのか?w

242 :日本@名無史さん:03/10/13 18:32
>>240
>おひおひ、「無能で活躍もせず、秀吉にコビを売った」って誰のことだよ。
 長秀のことだろ?
 家老・軍団長格の中では唯一方面軍司令官に指名されず、常に遊撃・援軍扱い。
 四国攻めでも信孝の副将扱い。
 これは、信長の古くからの側近であり実直であったがゆえに家老格まで
 引き上げられたが、実際の能力的には劣っていることを示している。
 さらに、信長死後は実力者である秀吉に媚びをうって、大幅な加増を
 してもらいながら、自分の死期が近づくと織田家の忠臣気取りで、秀吉に
 拗ねて見せた(しかし、秀吉の怒りを買って丹羽家滅亡を招くことを恐れ、
 表立って兵を挙げたり非難面罵するなどの行動はしない消極的なもの)
 という、長秀の自己保身のヘタレっぷり。
 最悪だな、長秀。
 

243 :日本@名無史さん:03/10/13 20:38
>>242
いちいち突っ込みどころ満載なのだが・・・。釣られてみるか。

>四国攻めでも信孝の副将扱い。
>実際の能力的には劣っていることを示している。

信長は、伊賀攻めでは信雄に滝川一益・長秀をつけており、
武田攻めでは信忠に滝川一益・河尻秀隆をつけている。
息子は若くて不安だから有能な部下に補佐させたということで、
話は逆だろ?
だいたい、家老から方面軍司令官は栄転といえるのか?
滝川一益などはあまり喜んでいなかったようだが。

>秀吉に媚びをうって、大幅な加増

だから「媚びを売った」ってどこにそんな史料があるんだよ。
逆に秀吉の方が、長重と信長の娘との結婚を斡旋したり、
有力な同盟者としていろいろ配慮しているんじゃないのか。

>自分の死期が近づくと織田家の忠臣気取り

長秀が切腹したという説は2種類あって、
積聚の苦痛に耐えきれず割腹して腫瘤を摘出したという手術(?)説と、
秀吉の下風に立つことを恥じて病を理由にして自殺したという説(藩翰譜)があるが、
織田家の忠臣気取り(秀吉への抗議?)で切腹という説は聞いたことないぞ。
どこにそんなこと書いてあった?

244 :日本@名無史さん:03/10/13 21:56
以前、このスレで話題になった「惟住氏」「惟任氏」について、
「姓氏家系大辞典(角川書店)」を図書館で調べてきました。

惟住 コレズミ 鎮西の名族にして、大神姓也、中興系図に「惟住、大神」と見ゆ。

惟任 コレタフ 鎮西の名族にして、緒方氏と同様、大神姓なり。
中興系図に「惟住・大神」と載せ、また大津留氏の系譜に
「本国は豊後、中古筑前那珂郡鷲嶽城主惟住日向守大神惟基の二男阿南日向守惟高云々」と。
いわゆる惟党の一なるべし。鎮西要略、寿永二年条に
「菊池隆直・罪を謝して帰服す。七月、肥後守貞能・菊池、原田、松浦党、惟任、惟純等を相帥ゐて上洛す」と見ゆ。

惟住・惟任は、鎮西の名族・緒方一族で大神姓のようです。

245 :日本@名無史さん:03/10/13 22:49
>>243
>だいたい、家老から方面軍司令官は栄転といえるのか?
言えるのでは?
軍権握って同僚に命令を下せる立場になるんだから。
勝家・秀吉・光秀・一益のように、単独で一軍を指揮する能力が
長秀にはなかったってことでしょ。

246 :日本@名無史さん:03/10/13 23:14
まあ、長秀は一軍の指揮官として軍事、占領地の内政、敵などとの外交・調略面で
他の軍団長や準軍団長に比べ、劣っていたのは否めない。

羽柴秀吉>徳川家康>柴田勝家=滝川一益>明智光秀>荒木村重>坂井政尚=森可成>池田信輝>佐久間信盛>丹羽長秀>織田信包>蜂屋頼隆>中川重政

247 :日本@名無史さん:03/10/14 02:54
長秀が方面軍司令官になれなかったのは
信長のお気に入りだったからだと思うな

今の企業でたとえると秀吉や勝家は支社長
長秀は本社の重役ってとこだろう


248 :日本@名無史さん:03/10/14 20:39
>>247
長秀と光秀について、フロイスの日本史では、信長の「寵臣」とされている。
(ちなみに信長軍の「総司令官」とされているのは柴田勝家と佐久間信盛だ)
「米五郎左」という表現(翁草)が本当にあったのかどうかわからんが、
信長にとって常に手元に置きたい存在だったんじゃないの?

方面軍司令官は後世の人が思うほど居心地の良い地位じゃなかったようだ。
下記のHPで滝川一益の手紙が紹介されている。

http://rekiju.hp.infoseek.co.jp/tegami/takigawa.htm

地方転勤を命ぜられた重役の悲哀ってとこだな。
長秀は安土城築城の功で信長から名物茶器をもらったが(天正4年2月)、
一益はさぞかし羨ましかったに違いない。

249 :日本@名無史さん:03/10/14 21:37
>>248
おいおい、方面軍司令官はどう考えても晴れがましい地位だろ。
単に一益はこの時すでに老境に差し掛かっており、気力が少し衰えて来ている、
すなわち武将としてのピークを過ぎて下り坂なだけじゃん。
普通の武将なら、信長の指示を仰がないといけないにしても、ある程度
独立した軍権を認められ、一軍を指揮するのは武人としての誉れ。
主君の信長を除いては、並みいる織田家臣たちの頂点に立つことになる。
気苦労が多い地位でも、秀吉・勝家は無難にこなしている。
しょせん、光秀ほどではないにしても、一益もプレッシャーに負けてるって
ことだろ。
しょせん、秀吉や勝家よりは器量が下な男ってことだよ。


250 :日本@名無史さん:03/10/14 21:47
軍司令官というのは戦術戦略に優れて軍事のことを任せられてるわけで、
じゃあ他の奴が無能か、って話にはならないと思う
信長の部下にも村井貞勝とか文官系で有能な人物は何人もいたし、
長秀も織田の家宰的なポジションだったんじゃないの?

251 :日本@名無史さん:03/10/14 23:19
>>250
軍事政権で文官と武官が同格なわけないだろ。
どんな会社にも営業部長的な存在と総務部長的存在がいるだろうが、
ガンガン外に出て拡大しなきゃならない戦国時代の大名家にとっては、
営業部長(軍団長)>>>>>総務部長(文官)。
よって軍団長になれない時点で羽柴・柴田にかなりおちる人材であったことは確実。

252 :日本@名無史さん:03/10/15 00:07
同格もなにも、
柴田と羽柴の序列だって違うじゃん

この話の元は
>家老・軍団長格の中では唯一方面軍司令官に指名されず

ってとこあたりからだと思うが、家老・軍団長格の定義もあいまいな上に、
(5本の指に入ると思われる)明智も丹波攻めのあとは遊軍だし、
滝川も武田攻めが終わってやっと上州担当になっただけで、それまで東国担当だったわけではない
失敗に終わった四国攻めが成功したら丹羽が四国担当になってないとは言い切れない

まるきり個人の主観で能のあるなしを言っててもしょうがないだろ


253 :日本@名無史さん:03/10/15 00:34
>>251
組織が大きくなると、企業における総務部長のような、
政治的な手腕が求められる役割が重要になってくる。
信長も当然そのあたりを心得ており、
武井・松井・村井といった連中に高い地位を与えている。
単なる軍事政権ではない。

254 :日本@名無史さん:03/10/15 01:17
>>190
丹羽光重が名君?
丹羽光重って娘の嫁ぎ先の大名に、だらしないから
親戚として恥ずかしいから、生活正せって叱責され
ていたような気がする。

255 :日本@名無史さん:03/10/15 04:17
>>253
織田じゃまだまだ文官の地位は低いね。
少なくともその三人が軍団長と同格ということはない。
官僚を武断派より同格に以上にしようとした豊臣は失敗し、
徳川の時期に逆転現象が成功した。

256 :日本@名無史さん:03/10/15 23:53
>>255
>少なくともその三人が軍団長と同格ということはない。

信長公記を見れば、そんなことは決してないということがわかる。
天正3年7月、武井夕庵や松井友閑は「家老衆」として任官している。
天正6年元旦に信長が主立った家臣に茶を振る舞ったが、
そのときの諸将の序列は次のとおりだった。

1 織田信忠  2 武井夕庵  3 林秀貞  4 滝川一益
5 細川藤孝  6 明智光秀  7 荒木村重  8 長谷川与次
9 羽柴秀吉  10 丹羽長秀  11 市橋長利  12 長谷川宗仁  
(ちなみに与次と長利は信忠の臣。宗仁は堺の商人出身の奉行衆)

夕庵と秀貞は禄高が小さかったが、家老であるためか、いわゆる軍団長
(丹波攻略中の光秀、中国攻略中の秀吉)より高い席次を占めている。
また、同年正月4日に万見重元邸で名物披露の会(2次会?)が開かれた。

1 武井夕庵  2 松井友閑  3 林秀貞
4 滝川一益  5 長谷川与次 6 市橋長利
7 丹羽長秀  8 羽柴秀吉  9 長谷川宗仁  

秀吉と長利が入れ替わっているが、やはり家老である夕庵・友閑・秀貞が上席。
(一益の位置は微妙だが、家老の末席かもしれない)

要するに織田家では、「軍団長」は「家老」よりも序列は下ってことなんだな。

257 :日本@名無史さん:03/10/16 01:15
茶会の席では正客が一番格が高く、以下次客と続く。
ただし末客だけは特別で、作法に知悉している必要があるので格が低いわけではない。
長谷川宗仁が末客なら確かに適役ではあるな。
ちなみに一番格の低い客は、末客の隣にいる人物。この場合、前者は市橋長利、後者は秀吉となる。

258 :日本@名無史さん:03/10/16 01:55
>>256
> 要するに織田家では、「軍団長」は「家老」よりも序列は下ってことなんだな。
おいおい、おかしいぞ。

軍団長=家老または家老待遇であるが、家老=軍団長ではない、が正しい理解ではないの。
家老は常任の職だが、方面軍司令官は敵がいる間だけの臨時職。
軍隊を見てみろよ。
方面軍司令官=将軍だが、将軍=方面軍司令官ではない。

だが、方面軍司令官に抜擢される人間は一軍を任され、
軍事指揮・敵や同盟軍との外交・占領地の民政の全てをこなすわけだから
当然だから全ての面で一定レベルを上回る能力を持った有能な部将でなくては
ならない。

そういう意味で、早くから一軍の指揮官として苦しい時期を乗り越えた柴田勝家・
明智光秀・羽柴秀吉・滝川一益は、佐久間・荒木・池田等よりは有能であると
信長が認めていたと言える。
また、戦争において、準レギュラーでもっぱら応援・代打代走・守備要員として活動し、
天下の中枢を押さえ、軍事面で「少々のことじゃ負けない。負けても大したことない」
余裕がある時期になって初めて司令官を任された長秀の能力が、「勝家・光秀・秀吉・一益
より下」と信長が見ていたことも間違いない。

秀吉らが任官した際も、長秀は「今まで通り五郎左で結構でござる」と言い張ったことに
なっているが、惟住の姓は受けているし、後には越前守になっているように、
この逸話もかなり怪しく、実際のところは「官職いる?」「いらねー」「ふーん、まあ
(長秀には大事を任せるわけじゃないから)いいか」ってのが、真相ではないかなあ?


259 :日本@名無史さん:03/10/16 04:41
>>258
> この逸話もかなり怪しく、実際のところは「官職いる?」「いらねー」「ふーん、まあ
> (長秀には大事を任せるわけじゃないから)いいか」ってのが、真相ではないかなあ?

それは、全てあなたの思い込みです。
ほかのことは知らんが、ね。

260 :日本@名無史さん:03/10/16 08:18
>>259
 >>258は断定はしてないと思われ。


261 :日本@名無史さん:03/10/16 13:06
>>258
>>余裕がある時期になって初めて司令官を任された長秀

だからこそ信長は長秀を重用していたと考えるべきかも
前線に送り込むという事は「おまえ死んで来い。失敗したら左遷ね」
ってことだろう、言い換えれば死んでも全然構わない
はっきり言って信用してないってことじゃない?
だからこそ監視者をたっぷりつけていたわけで


262 :日本@名無史さん:03/10/16 18:13
茶会に政治や現世の序列が入ることはままあることだが
顔ぶれをみれば細川や明智といった歌道や茶に堪能な武将がまざってるじゃない。
荒木とかも。こういう場合はその辺を考慮した序列と思うべし。

263 :日本@名無史さん:03/10/16 19:01
ま、そもそも序列なんてないのかもしれないな

264 :日本@名無史さん:03/10/16 21:59
茶会の場合いないと参加できないわけだから微妙なとこだな
前線が忙しいと離れられないし

265 :日本@名無史さん:03/10/16 22:27
>>261
戦争は有能な者から前線に送られます。
もちろん捨て駒もありますが、
無能者に権限を与えて前線送りする勢力こそ
信長が平らげた旧勢力なわけだし。
長秀が必死に我田引水しても無駄ですよ。

266 :日本@名無史さん:03/10/16 23:15
>262
茶席では末客以外茶道の作法に堪能である必要はないんだけどね。そのために半東(亭主も)がいるわけだし。
現代の茶会でも言える事だが、作法は知らないが身分の高い人Aと作法を知っているが身分は低いBが同席する場合、席順は必ずA→B。逆をやられると亭主側は戸惑う。
ま、茶席に限る序列なわけだが。

267 :日本@名無史さん:03/10/17 01:17
明智の娘が妻だからといって織田信澄攻めるのもどうかと
いとこの信孝が言い出しっぺなわけないし・・


268 :日本@名無史さん:03/10/17 02:05
信孝ならありうるぞ。

269 :日本@名無史さん:03/10/17 03:24
>>265,>>258
同感。
秀吉などのように、飛びぬけて有能なら、信長がまだそれほど強くなく苦しい時期から
一軍をあずけられ前線を任されていたはずで、常にサポートか留守番の長秀の能力は
秀吉たちよりは劣っていたのであろう。

もっともそれは長秀が無能だということではなく、秀吉たちよりは劣っているという
相対評価で、絶対評価からいけば平均を上回る武将であったということは
間違いない。




270 :日本@名無史さん:03/10/17 04:22
織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)によれば、丹羽長秀の項に「長秀の地位」という欄がある。
それによれば、丹羽長秀は尾張一国時代には柴田勝家、佐久間信盛と並んで五指に入る地位にいたが、
後に柴田勝家、佐久間信盛に続く地位に、明智光秀、羽柴秀吉、武井夕庵、松井友閑、村井貞勝、
塙直政、簗田広正、滝川一益が進み、長秀は実力主義の信長の評価において、秀吉たちに
抜かれていると考えてよい、と位置づけている。
まあ、これが妥当なところでしょうね。
このうち塙直政が討ち死に、簗田広正が加賀平定失敗による失脚で脱落。
また生きていれば秀吉らと同じく長秀を追い越したであろう坂井政尚や森可成も死亡によって消え、
長秀と同じ第2グループの中にいた荒木村重は毛利に寝返り、中川重政も失脚。
さらにトップグループにいた佐久間信盛も失脚、明智光秀が謀叛・死亡したことで、ようやく
長秀が第2グループの蜂屋頼隆、池田信輝を抑え、生き残り部将トップグループ入りって感じだな。
もっとも、実力・功績の面で劣っても、15歳から信長に仕え、信長の庶兄信広の娘を妻にする
譜代・古株というポイントもあったので、処遇や形式上の序列においてはトップグループ並みの
扱いをされていたのだろう。

271 :日本@名無史さん :03/10/17 13:25
むしろ清洲会議に池田がはいっていたのが意外

>>268
信孝軍は信長の死を聞いて大量の脱走兵でてたとか聞いたけど・・

272 :日本@名無史さん:03/10/17 17:03
>信長の庶兄信広の娘を妻にする

丹羽長秀って当時としては異例に晩婚だよね、なんででしょう?

273 :日本@名無史さん:03/10/17 20:09
>>272
信長が嫉妬するからw

274 :日本@名無史さん:03/10/17 22:23
>>273
そうだとしたら、長重の幼名が鍋なのは、やっぱり信長が
名付けたのかも。

ところで、長重には姉がいたっけ?

275 :日本@名無史さん:03/10/18 00:34
>>273
姉妹は数人いたみたいだがなぁ

結婚から長重誕生まで8年くらい?あるから
姉が数人いても不思議じゃない

276 :日本@名無史さん:03/10/18 00:52
長秀の父って誰?
長秀に限らずこの世代の武将の父って系図上でしか存在しなかったりするけど

277 :日本@名無史さん:03/10/18 01:30
>>271
池田は山崎の合戦に出てるからね
あと、秀吉が味方を増やすために入れたとか

278 :日本@名無史さん:03/10/18 01:49
そりゃあそうだ>池田
本来なら清洲会議に参加できるような序列ではないだろう。
秀吉がごり押しして(乳母子だからというのもあり)
山崎合戦の運命共同体として池田も腹をくくって秀吉推戴に回って参加。


279 :日本@名無史さん:03/10/18 02:33
秀吉は山崎の合戦に参加した連中で清洲に臨みたかっただろうな。
堀秀政なんかも有力な候補にしたてあげて。
譜代の度合いで池田とかを押し切ったのだろうね。

280 :日本@名無史さん:03/10/18 03:43
>>271
池田恒興は、長秀と同じく遊撃軍の指揮官を行ったり、信忠軍では川尻秀隆と
ならんで武田軍の抑えとして活動している。
さらに荒木攻めでも一手の将として功があり、摂津一職支配にはなれなかったものの、摂津の筆頭として光秀与力系以外の摂津の
部将たちの指揮官となっている。
秀吉たち方面軍司令官に続くクラスの部将で、序列はともかく前線指揮官としての権限は長秀とほぼ変わらないし、実績においては
長秀を勝っている。
それに信長の乳兄弟という点を考慮すれば、方面軍司令官>丹羽長秀>池田恒興>蜂屋、川尻・・・・だから、
そんなに意外なことではない


281 :日本@名無史さん:03/10/18 03:58
>>276
丹羽長政。
尾張守護斯波家の家臣であり、尾張では佐久間党などと同じくそれなり有力な土豪。
織田信秀の勢力拡大を見て、長秀を差し出し15歳から信長の近習として仕えさせている。


282 :日本@名無史さん:03/10/18 12:52
当時の政治情勢を分析すると、織田家は四方に敵を抱えており、
速やかに後継政権づくりをする必要性に迫られていた。
一方、光秀滅亡後、死亡した信長・信忠・光秀・信澄の領土
(近江・山城・美濃・尾張・丹波・摂津大坂)を占領していた
軍事力は、次のようなメンバーから成る多国籍軍だった。

1 中国方面軍(羽柴秀吉・堀秀政)
2 四国方面軍(神戸信孝・惟住長秀・蜂屋頼隆)
3 摂津衆(池田恒興・中川清秀・高山右近)
4 北陸方面軍(柴田勝家・勝豊)
5 南伊勢衆(北畠信雄)
(4,5は全く活躍していないが、近江に出兵している)

このうち、後継者争いをしていた信孝・信雄を外し、
1〜4が各1名代表を出して戦後処理問題を協議したというのが清洲会議で、
結果として、新たに選出された「宿老4人」による連立政権が誕生した。
長秀・恒興は、キーパーソンとして漁夫の利を得たものと思われる。

283 :日本@名無史さん:03/10/18 14:55
人間誰にでもチャンスがある。
長秀は実力以上の大チャンスを掴んだが、
幸運はするりと指の間から抜けていってしまった。

284 :日本@名無史さん:03/10/18 16:59
>>281
>尾張では佐久間党などと同じくそれなり有力な土豪
嘘はいかん

285 :日本@名無史さん :03/10/18 18:25
>>282
2に三好は入らないの?

286 :日本@名無史さん:03/10/18 21:01
>>285
三好康長の場合は、四国方面軍の先鋒だが、
変報を聞いて河内に帰国した後、信孝等の軍事行動には参加していないため、

・占領地を放棄して本国に帰国した諸将(滝川一益・森長可等)
・日和見(?)で積極的行動をしなかった諸将(筒井順慶・細川藤孝)

のどちらかと同じ扱いを受けたのではないか。

当然戦後処理に全く発言権はなく、四国三好家の危機的状況を打破するために、
秀吉の甥に家督を譲渡せざるを得ない状況に追い込まれたものと思われる。

287 :日本@名無史さん:03/10/18 22:32
>>286
それなら>>282の摂津衆に入れてもいいじゃん。
当時の笑岩は河内が本拠地であり、岩倉は息子の
式部が城主なのだから。



288 :日本@名無史さん:03/10/18 23:05
別に五郎左が滝川よりよわくてもいいじゃねーか
人には得て不得手があるんだから
それは本人お罪でないし
能力が低いことは
周り責めるようなことでもないです

289 :日本@名無史さん:03/10/19 00:10
>>287
>それなら>>282の摂津衆に入れてもいいじゃん。
>当時の笑岩は河内が本拠地であり、岩倉は息子の式部が城主なのだから。

おいおい、後段は正しいが、前段が意味不明だぞ。
「河内が本拠地」なのに、なぜ「摂津衆」なのだ???
本能寺の変後、三好笑岩が摂津衆と行動を共にしたという史料でもあるのか?

290 :日本@名無史さん:03/10/19 01:42
長秀の最期は自害か病死か毒殺か
いったいどれなのですか

291 :日本@名無史さん:03/10/19 06:51
>>270
なんかこれみるとアレだよね
結局死んだら負けだよね。
砂を噛んででも生き残らないと……
>>288
そうだよな、好き好んで秀吉たちより劣って生まれてきたわけじゃないもん
その辺勘違いしてる奴多すぎ。

292 :日本@名無史さん:03/10/19 10:07
戦国武将としての長秀は、戦争でもほとんど不敗だし、
さしたる挫折もなく最後には大大名になり、順調そのもの。
何を持って能力不足とするのかわけがわからない。
秀吉に比べて足りないのは野心ぐらいでないの?

293 :日本@名無史さん :03/10/19 11:21
しかし賤ヶ岳の戦を長秀はどんな気持ちで戦ったんだろか・・

294 :日本@名無史さん:03/10/19 11:50
>>292
大敵と戦ってない。
毛利や上杉、本願寺相手に大将として一進一退の後勝利、と
もっと小さな相手に勝利&大敵相手に援軍、では
全然評価が違って当然。
百億円の仕事を苦しんで十年でやりとげた男と、
一千万円の仕事を一年に一回ずつ成功させた男とどっちが有能?

295 :日本@名無史さん:03/10/19 13:26
>>294
>毛利や上杉、本願寺相手に大将として一進一退の後勝利

おいおい、そんなに華々しい合戦なんてあったか?
方面軍とはいっても、敵の本隊とはできるだけ戦うことを避け、
城を囲んでは落とし、囲んでは落としの地味な戦いばかりじゃねーか。

>百億円の仕事を苦しんで十年でやりとげた男と、
>一千万円の仕事を一年に一回ずつ成功させた男とどっちが有能?

どちらも有能・・・といいたいところだが、
10年もかかったら、信長は評価してくれないだろう。
佐久間なんて、本願寺攻めに5年かけたという理由でクビじゃん。

296 :日本@名無史さん:03/10/19 13:58
もし信長が天下統一を果たしていたら
羽柴家はいずれ改易されていただろうな

ちなみに丹羽は老中級で安泰

柴田・明智・滝川は当主が死んで
10万石クラスの小領主に・・・


297 :日本@名無史さん:03/10/19 14:09
信長の4男が秀吉の養子になってたから、改易よりも
秀吉が強制的に隠居させられるだけじゃない?

298 :日本@名無史さん:03/10/19 14:34
>>295
お前は比喩も分からない、文意も読み取れない馬鹿なのか?
大敵と戦っていない、という点と、
丹羽が無難にやりとげた仕事は方面軍のものより小さいというのが
漏れの>>294の骨子なんだが?

「一進一退」はそれこそ囲んでは落とし、一揆が起きれば退いたりの繰り返しで
「華々しい勝利」ではないのに、勝手に逆の解釈を行い(日本語分かる?)
比喩で上げた10年という数字にだけ噛み付いて鬼の首でもとったようにほざく。

どうして長秀を方面軍団長より上に置きたがる香具師ってこうもヴァカで必死なのかね?

299 :日本@名無史さん:03/10/19 14:44
なんか痛い奴が紛れ込んできたな

300 :日本@名無史さん:03/10/19 14:51
300げとー

301 :日本@名無史さん:03/10/19 15:54
>>299
いつもの引き篭もり煽り厨だから気にすんな

302 :日本@名無史さん :03/10/19 18:38
>>298
安土城の普請奉行や鉄甲船も金はかかってるとは思う

303 :日本@名無史さん:03/10/19 18:42
>>297
秀勝が生きてたらそうなるね

304 :日本@名無史さん :03/10/19 21:57
1564年頃、尾張の最北端にある犬山城(城主:織田信清)攻略の際、黒田、小口両支城の
城主で信清の家老である和田新助、中島備後守を調略、犬山城攻略に貢献した。
翌1565年、木曽川を挟んで犬山城の対岸に位置する美濃斎藤氏配下の猿啄城攻略の際には、
長秀が水源を絶ち、猿啄城攻略にも貢献した。
同年内に猿啄城の三里奥の加治田城主の佐藤紀伊守を調略。
以上のように長秀は東美濃攻略の主役を演じていた。

305 :日本@名無史さん:03/10/19 22:22
大河ドラマで丹羽長秀を演じられるのは
児玉清しかいないだろー、と思ってしまう。
太平記の金沢貞顕役での「人あたりのいい家老」ぶりを見ると。

306 :日本@名無史さん:03/10/20 01:58
>>292
大河ドラマの主人公として考えてみよう。

■羽柴秀吉:
  下僕から成り上がり、一気に天下人!劇的でおもしろいのは保証済み。

■柴田勝家:
  無骨な男が一度は信長に叛き、そして従い、信長軍団の筆頭家老として
  成り上がり者に鉄槌を下さんとして敗れ去るその姿は男のロマン。
  劇的でおもしろそう!  

■明智光秀:
  まじめな明智君が、ジャイアン信長やその取り巻き連中の陰湿なイジメに
  とうとう怒り爆発。劇的でおもしろそう!

■滝川一益:
  名前の読み方だけでスレが立つ人気者。謎の出自は甲賀ニンジャとして
  描けば、さらに盛り上がるかも。劇的でおもしろそう!

■丹羽長秀:
  ・・・・え〜っと、何した人だっけ?大河どころか2時間枠特番でも
  キツイかも・・。




307 :日本@名無史さん:03/10/20 02:35
>>306
丹羽はともかく君が脚本書いたらつまらなくなることだけはわかった

308 :日本@名無史さん:03/10/20 03:58
丹羽をやったら利家とまつみたいになるからヤダ。


309 :日本@名無史さん:03/10/20 09:40
今だったら明智でも伊達でも大友でも佐竹でもネタになった戦国大名はみんなみんな
 と し ま つ みたいになってしまう罠(つд`)
・・・大河スレに逝ってくるw

310 :日本@名無史さん :03/10/20 10:11
>>309
雑賀孫市とか九鬼嘉隆ならそうはならないんじゃ

311 :日本@名無史さん:03/10/20 14:39
いや・・・この人を「穏健派家老」つー役に徹底して作ったら
ものすごくリーマンの支持を受ける幻の2時間ドラマになるような気がする。
問題はリーマンじゃ購買力がないからCMスポンサー付かないってことだよな。
大河も2時間も女子供が見るモンなんだよな、今は・・・。

312 :日本@名無史さん:03/10/20 16:39
長秀単独より長重とセットでやった方がいいかも
舅の織田信広も積極的に出してさ

あくせく働いて過労死した挙句所領は秀吉に奪われ
大身大名から小領主への鮮やかな転落を描くんだよ
信長、秀吉、家康、秀忠と時の権力者に
翻弄されつづける武将の人生を語る・・・
大河でも結構行けると思うが
んで小松、白河、二本松は観光客を増やそうと躍起になる

313 :日本@名無史さん:03/10/20 17:34
>>312
その手のタイプは丹羽じゃなくても死ぬほどいるから
丹羽長秀である必要性がない。

314 :日本@名無史さん:03/10/20 17:59
織田信広の居城はどこかわかんないが
もの(系図等)によっては古渡城としている
(もっとも古渡は廃城になってるんだが)
そして丹羽長重が復活したのも常陸古渡城だ
これって偶然か?

以下、俺の妄想
家康「秀忠がしつこく言ってくるのでそなたに領地を与えよう。
そこに住め」
と言って「古渡」と書いた紙を長重に提示した
長重「ありがたき幸せ。亡き祖父も喜びましょう(ありがたい配慮じゃ)」
家康「ほほう、そなたの祖父が喜ぶのか?(ニヤニヤ)」
長重「(あれ?)はっ!そこはもともと祖父織田大隅守の城に
ござりますれば・・・」
家康「ところでそちの父の城は佐和山であったな。湖の見える良いところじゃ」
長重「はっ。大層景色の良いところでござりまする(何の話だろう?)」
家康「そちは湖は好きか」
長重「は?(琵琶湖の事かな?もしかして近江の所領も返して戴けるのか?)
ははっ・・・大好きにござりまする」









315 :日本@名無史さん:03/10/20 18:00
つづき

家康「そうか湖が好きか、それは良かった。そこも湖の見える風光明媚なところじゃ」
長重「???(古渡からは見えるのは海くらいだぞ?ぼけてるのかこのじーさん)
ははっありがたく頂戴いたします」
家康「そうかそうか、ならすぐに「ふっと」に向かえ」
長重「は?今なんと?」
家康「ふっとじゃ常陸のふっと」
長重「・・・ふるわたりでは?」
家康「ふるわたり?そちは若いのにぼけておるのか?ふるわたりからは
海しか見えんぞ。湖が大好きと言ったであろう?湖が嫌いならふるわたりにしようかと
思っておったが」
長重「・・・(´・ω・`)ショボーン」

長久手スマソ

316 :日本@名無史さん:03/10/20 18:18
二本松はDQNが多い地域。
全市長からしてDQNだし。

317 :日本@名無史さん:03/10/20 18:59
全ての市長がDQNだった市も珍しい

318 :日本@名無史さん:03/10/20 19:21
>>317
ワロタ
でも朝河貫一はここの出身だね

319 :日本@名無史さん:03/10/20 23:10
>>306
長秀を貶めたいのはわかったからさー、
大河とかじゃなくて、ちゃんと史料を出して議論を展開して欲しいよな。

一応マジレスすると、秀吉以外の勝家・光秀・一益・長秀はいずれも、
大河ドラマが作れるほどエピソードがたくさんあるわけではないから、
必然的に物語の大半は、信長の事績をなぞるものにならざるをえない。
ゆえに本能寺の変の直前までは、誰を主人公にしても大差ない。

本能寺の変以降なら、2時間ドラマで十分だな。

320 :日本@名無史さん:03/10/20 23:17
ぎりぎり光秀は浪人時代とか足利義昭とかの絡みでエピソードがあるけど、
本能寺の変で終わっちゃうしな

321 :日本@名無史さん:03/10/20 23:18
天海説ならいける

322 :日本@名無史さん :03/10/21 00:02
藤堂高吉
1579年(1581年説あり)〜1670年。
丹羽長秀の三男。
後に豊臣家と丹羽家の縁を結ぶため豊臣秀長の養子となり、
その後、兄・秀吉の命により、秀長の家臣であった藤堂高虎の養子に入る。
高虎が関ヶ原戦後、伊予今治から伊勢安濃津に国替えとなると、
家康の命により今治2万石に城代として残る。
1635年、藤堂家の今治領が伊勢国内と交換となると、
高吉は名張に移住し、名張藤堂家の祖となる。

323 :日本@名無史さん:03/10/21 00:11
>丹羽能教
>明和3年〜天保14年(1766〜1843)
>会津藩家老。軍事奉行として文化5年北辺警備に就く。同7年江戸湾警備の任に辺り諸務を総督する。
>私費で荒地をひらき藩主保科正之の祭田に加えたが、藩公からの恩賞を断り手書の銘刀だけを拝受したという。
>墓は小田山公園の頂上近くにある。

この人物はどこの丹羽家なんだろ・・

324 :日本@名無史さん:03/10/21 00:12
光秀の場合、当時最高の武勲とされた丹波攻めについて、
どうもハッキリしたことがわからないらしいんだな。

光秀の伝記(吉川弘文館人物叢書・明智光秀)を書いた
高柳光寿氏が、とても残念がっていたね。

325 :323:03/10/21 00:28
調べたらあった。スマソ

坂上姓=坂上田村麻呂の後胤:家紋「丸内強引両」
◆坂上姓=・・→ 始祖 丹羽勘十郎良宗(尾張国丹羽郡住人)→
勘右衛門宗貞{慶長14年1609生}[会津藩仕官]→宗能→宗継→織之丞能剛→
丹羽勘解由能衝→織之丞能教(蒙斎){明和3年1766生}[丹羽家中興の祖]→起四郎(宗因)
→寛次郎宗源(勘解由)→(宗源 養女 豊子=)丹羽五郎[宗継弟 丹羽族 男 嘉永5年1852生]→
四郎→松子[大正5年1916生 北海道丹羽村在住]・竹子[大正6年1917生 筑波市在住]・・・→?
丹羽七郎→徹・眞・・・→?丹羽八郎・・・→?
参考資料:「丹羽村の誕生」会津藩士丹羽五郎の生涯 高橋哲夫著 (1989 歴史春秋出版社)

丹羽村:北海道瀬棚郡北桧山町丹羽(字丹羽・東丹羽・西丹羽)=現在地名

326 :日本@名無史さん :03/10/21 00:58
こんな所にも子孫が・・

稲葉正邦 (淀藩主・老中)
天保5年(1834)5月26日〜明治31年(1898)7月15日
 陸奥二本松藩主丹羽長富の次男として生れ、のち淀藩主稲葉正諠の養子となり、
嘉永元年11月養父の死去により15歳で襲封した。
文久3年6月より元冶元年4月まで所司代に就任し、その間、京都守護職松平容保と
協力して尊王討幕の過激派をおさえ、孝明天皇の攘夷祈願のため大和行幸を中止させ、
尊攘派公家の参内停止と長州藩の禁門警備役解職のいわゆる八月十八日の政変を挙行した。
また政変直後の大和五条の乱(天誅組の乱)、翌元冶元年3月の武田耕雲斎らの筑波山挙兵
(天狗党の乱)に対応して支持派を弾圧した。同年4月所司代より老中に転じ、
翌慶応元年4月までその重職にあった。
慶喜が将軍職につくと、その庶政改革を補佐するなど、幕末の困難な政局に老中として
その責務を果した。ついで江戸城明渡しには恭順派を支持して時局収拾に努力した。
翌2年6月版籍奉還して淀藩知事に任じ、4年7月廃藩によりこれを免ぜられた。

327 :日本@名無史さん:03/10/21 01:14
丹羽長秀が本能寺の後どうすれば
天下が取れただろうか

やっぱり信澄をぶっ殺したのがいけなかったのだろうか

328 :日本@名無史さん:03/10/21 03:21
じゃあ、これからこのスレは丹羽長秀が天下を取るには、どうすればよいか
脳内妄想するスレにしよう。

329 :日本@名無史さん:03/10/21 03:38
山崎までは秀吉と組んどいて、
そのあと柴田に味方だな
柴田、丹羽、滝川、徳川、信孝と組めば秀吉もかなうまい
そのあと家康を始末
これだとただの織田家に逆戻りなんで信雄、信孝をどうにか始末
柴田は本能寺の時点で61?だったはずだからそろそろ死ぬだろ
跡継ぎがロクなのいないんで五郎左アトヲタノム

という妄想でどうよ

330 :日本@名無史さん:03/10/21 07:27
五郎左もその段階で結構としいってそうだけど
というかそれだと勝家→佐久間にいっちゃうんじゃないか?

331 :日本@名無史さん:03/10/21 07:45
すげえ長命を誇って、秀吉・秀長死後に
自領100万石(1598年にはそれくらいにはなるだろう)と
秀長領112万石(養子にだした丹羽高吉)で畿内を挟撃。

332 :日本@名無史さん :03/10/21 22:53
やっぱり清洲会議で五大老制度みたいなのを言っておけば
その後変わったかもしれないのでわないかと

333 :日本@名無史さん:03/10/22 00:43
>>319
「そういうけど、あの誰でも構わず小説にするPHP文庫ですら、
丹羽長秀は出してねーじゃん!」とレスしようと思ったら、
出てるじゃんよPHP文庫・・・・
誰か読んだ人いる?
丹羽長秀本人に関する記述は20ページ以上ありましたか?w



334 :日本@名無史さん:03/10/22 03:53
>>333
以前読んだ事があります
当時は丹羽長秀の事などどうでもよかったので
捨ててしまったのですが、ちょっと後悔してます

内容は長秀の紹介なのか長秀を主人公にした
小説なのかあいまいな内容で
読み物としてはかなりの駄作かと

335 :日本@名無史さん:03/10/22 06:35
PHP文庫は、割り振られた武将のことを書くんじゃなくて
自分の戦国知識&感想を書いてページ埋める作者が多すぎ。

336 :日本@名無史さん:03/10/22 23:21
?

337 :日本@名無史さん :03/10/23 01:37
>>326のつづき

稲葉正邦は維新後に子爵となり、明治19年
神道本局の初代管長に就任する。(総裁は有栖川宮親王)
その後、神道本局からは天理教、金光教などが独立していった。
そして晩年まで教派神道の振興に尽力したのである。

338 :日本@名無史さん:03/10/24 02:20
信長は佐和山にやたら宿泊・滞在しているな
居城以外では一番滞在日数が長いんじゃないか
上洛時に立ち寄るのは便利だからなんとなくわかる
んだが安土に移ってからも三河へ鷹狩に行く時に
しばしば宿泊している
安土から佐和山まではわずかな距離なので
あんまり意味がない宿泊だよ



339 :日本@名無史さん:03/10/25 05:38
丹羽長秀は信長の影の軍師だった。
だからこそ、常に信長は長秀をそばに置き、大して戦功がないにもかかわらず
家老No2の地位を与えた。

340 :日本@名無史さん:03/10/25 13:41
>>339
それは、全てあなたの思い込みです。

341 :日本@名無史さん:03/10/25 17:09
梅沢富雄だもんなぁ。。。

342 :日本@名無史さん:03/10/25 17:34
古今東西、大将の側近の所領が少なかったり
身分が低かったりするのはよくあることだ

それで所領が多い奴と能力を比較しても
意味がない

343 :日本@名無史さん:03/10/25 22:35
鉄砲こそ新時代の武器と考え、信長に進言したのは長秀

344 :日本@名無史さん:03/10/26 01:47
鉄砲こそ新時代の武器と考え、信長に進言したのは勝三郎

345 :日本@名無史さん:03/10/26 02:11
鉄砲こそ新時代の武器と考え、信長に進言したのは長秀の正室

346 :日本@名無史さん:03/10/26 06:24
鉄砲こそ新時代の武器と考え、信長に進言したのは信長の隠し妾にされていた長秀の正室

347 :日本@名無史さん:03/10/26 10:49
>>341
長秀の肖像画って2種類あるようだけど、

http://www.ni.bekkoame.ne.jp/ca005338/busyou1/d1/d1-b4.htm

梅沢富美男では美形すぎるような気がする。

348 :日本@名無史さん:03/10/26 14:43
>>346
近親相姦(・A・)イクナイ!!

349 :日本@名無史さん:03/10/26 14:52
>>347
ぼーっとした顔と怒った顔だな

美形云々以前に信長より年下なんだから梅沢じゃなくて
竹野内豊にやって欲しかったな

350 :日本@名無史さん:03/10/26 15:58
>>274
超遅レスで恐縮だが長重の姉妹について調べてきた
出典は系図纂要(たしかそんな名前)

母不詳、長紹(6男です)同母姉
近江丸茂城主赤田隼人正源正室
一女あり 慶長19年没

母不詳、長紹同母姉
粟屋越中守勝久室
一女あり 承応3年没

母織田信長養女、長重同母妹
稲葉彦六郎典通室
稲葉一通を生む 元和2年没

母堤教興姉、長正(次男でつ)同母姉
青山修理亮宗勝室
丹羽長勝を生む 寛文8年二本松で没

母堤教興姉、長正同母妹
石見浜田城主古田大膳大夫重勝室
古田重恒を生む 後、丹羽家に帰る
寛永11年江戸某邸で没

↓に続く




351 :日本@名無史さん:03/10/26 15:59
母不詳、長重姉
山田修理源高定室
丹羽正次を生む 寛永9年没

母不詳、長重姉
伊木豊後守(忠次か)室

母不詳、長重姉
種橋氏室

「〜室」と書いてるところは「〜が妻」と書いてあったと思います
あとこういう史料を読みなれていないので誤解してるとこも
あるかもしれません
あと没年月日は略しました


352 :日本@名無史さん:03/10/26 16:03

もうひとつ、丹羽長勝と丹羽長次は後に丹羽姓を名乗ったか
もらったかって書いてあったと思います(うろ覚えスマソ)

353 :日本@名無史さん:03/10/27 15:24
すっかりネタスレと化したな

成田道徳とか語ってないよな

354 :日本@名無史さん:03/10/27 23:32
>>353
そういえば、出てなかったね。

成田道徳(なりた・みちのり ?〜1588)
十左衛門。丹羽長秀の老臣。賤ヶ岳の合戦後、越前勝山城2万7千石を与えられた。
長秀が死んで長重が跡を継いだ際に秀吉打倒の言を発したことが発覚して出奔。
1588年、逃亡先の伊勢山田で捕らえられ処刑された。

成田の意見を採用していれば、天正13年に丹羽長重が天下を取ったかもしれないな。

355 :日本@名無史さん:03/10/28 00:03
>>354
実際危険な賭けだけどな
でもリスクを負う価値はある

秀吉が美濃にいる時に近江を攻め取れば
家康と連携して挟み撃ちにできる

この当時の秀吉政権はひどく脆弱だから
合戦に勝てば勢力が一気に丹羽・徳川連合に
傾くかも

挟み撃ちにできなければ秀吉は全力で丹羽を
潰しにかかるだろうな
そうなると丹羽は滅亡する


356 :日本@名無史さん:03/10/28 00:30
ただそうなると今度は徳川に天下を持っていかれる罠。

357 :日本@名無史さん:03/10/28 04:16
長秀は、個人的感情として柴田勝家をどう見ていたのだろう?
秀吉への肩入れ具合からして、嫌っていたのかな?

勝家から見た長秀は、武略で自分に劣り、遊撃・留守居ぐらいしかできない
格下の部将だったんだろうか。




358 :日本@名無史さん:03/10/28 16:38
>>357
歳が相当離れてるっぽいから
勝家は長秀を子供扱いしてたかも
長秀はうっとうしいおっさんだな、とか


でも、あんまり接点なさそうな気もする

359 :日本@名無史さん:03/10/29 06:58
丹羽長秀と仲が良かった同僚・悪かった同僚は誰ですか?

軍団長格:羽柴秀吉、佐久間信盛、柴田勝家、滝川一益、明智光秀、荒木村重、坂井政尚、森可成
準軍団長格:池田信輝、織田信包、蜂屋頼隆、中川重政


360 :日本@名無史さん:03/10/29 07:16
>>358

仲メチャ良し
 中川重政

仲良し
 羽柴秀吉、荒木村重、坂井政尚、織田信包

仲ちょっと悪し
 佐久間信盛、柴田勝家

仲メチャ悪し
 滝川一益、明智光秀、森可成


361 :日本@名無史さん:03/10/29 13:33
>>360
蜂屋頼隆は妹婿で4男を養子に出してるから
仲が(・∀・)イイ!!


と、思うよ

362 :日本@名無史さん:03/10/29 16:51
蜂屋とそんなゆかりがあったとは。
でも無嗣断絶だよね。早世したのかな4男。
おしいことだ。
なんか地味だけどちょこちょこ史料に名が見えるの好きだった。

363 :日本@名無史さん:03/10/30 16:10
>>362
系図に載ってるだけだから実際、丹羽と蜂屋がどういう関係だったか
わかんないけどね

丹羽が越前を得た時に蜂屋は越前の敦賀をもらってることから
考えると全然関係ないとは言えないよな



364 :日本@名無史さん:03/10/30 17:01
最近NHKで日本におけるFAXの開発者として
故丹羽保次郎さん(元東京電機大学学長)の名があがっていたが
丹羽氏と関係在るの?

365 :日本@名無史さん:03/10/31 00:17
>>364
さあ・・・
藩主だけでも丹羽家は三家あるしな
陸奥二本松藩、播磨三草藩(長秀とは無関係)、伊賀名張藩(幕府公認の正式な藩ではない)
あと旗本も何家かあるようだし


366 :日本@名無史さん:03/10/31 01:40
>>363
越前敦賀城主・蜂屋頼隆は、佐々成政攻めのころ、
秀吉の指示を越前・加賀の諸将(丹羽や前田など)
に伝達していたらしい(岩沢愿彦「前田利家」)。

信長在世のころは一方の大将であった頼隆も、
晩年は北国衆につけられた目付大名として過ごしたようだね。
四国討伐軍の因縁が続いていたのかな?

367 :日本@名無史さん:03/10/31 22:25
最初は蜂屋は勝家チームだったんだよなあ。
何人かの研究者が、信長上洛後の京・畿内の政権担当チームが2つあったと
指摘しているね。
柴田勝家・森可成・坂井政尚・蜂屋頼隆(時には佐久間信盛も参加)のチームと
丹羽長秀・木下秀吉・明智光秀・中川重政のチームで、この(4+1)+4に
伊勢方面を単独で受け持った滝川一益を加えた10人が、当時の織田政権の
トップ10だと言われています。
しかし、その後は他の9人に遅れを取り、塙直政・簗田広正・荒木村重などの
部将たちや、村井・松井・武井の三官僚などに追いつき追い越されていく。
丹羽長秀のグループに入ったのはこの頃で、トップグループの中では実力で
もっとも劣る長秀が、ほかの同僚が各地を転戦する間の畿内の留守番役となった
際に、同じく落ち目の蜂屋が与力として付けられた。
トップグループのビリと中堅グループのビリが組んだわけです。


368 :日本@名無史さん:03/10/31 23:49
なるほどね。遊軍だからあんまし精鋭だともったいないし。
かといってヘボすぎると役目を果たせない。
蜂谷は要衝・敦賀の地を得たことで5万石?ぐらいの封土以上の価値を得ている。
後の領主、大谷吉継が好例だね。
まあ、丹羽長秀をさらに小さくしたような何でも屋ってとこでしょうか。

369 :日本@名無史さん:03/11/01 14:48
>>367
それは谷口克広氏の説だろ?
この人は出世レースとか、現代人の視点で史料を分析してしまう癖があるので、気をつけた方がいい。
「天王寺屋会記」の永禄12年2月11日の茶会の記事をみると、
 佐久間信盛・柴田勝家・和田惟政・坂井政尚・森可成・蜂屋頼隆
 ・結城忠正・竹内秀勝・野間長前(結城・竹内・野間は三好・松永の臣)
これらの武将が、「上使衆」として招かれている。
要するに、堺に進駐してきた「幕府軍」の指揮官ということだ。
上洛戦直後の期間は、自前の軍事力を持たない足利義昭を支援するために、
織田・三好・松永が新幕府に家臣を送り込んでいたんだな。
京都を担当していた明智光秀・中川重政・丹羽長秀・木下秀吉にしても同じこと。
たまたま記録が残りやすい地方(京都・堺など)を担当していたというだけで、
トップエリート扱いするのはフライングじゃないかと思うけどな。

370 :日本@名無史さん:03/11/01 16:38
裏を返せば、そういう記録に残りやすいような重要な地域を任されるくらいの
地位があったともいえる訳なんだが。

371 :369:03/11/01 19:18
>>370
別に地位が低いとはいっていないけど、要するにこれは守護クラスの大名が、
軍指揮官を何名か派遣して共同で幕府の仕事を手伝っていたということであって、
後の京都所司代のような責任ある地位にいたわけではない。

京都方面担当だから織田家臣でトップグループだったとするのは、
「首都に勤務しているからエリート」みたいな発想で現代的にすぎるのでは?

372 :日本@名無史さん:03/11/05 12:45
だいぶ前に誰かが恐らくネタで
長秀の正室が信長の隠し妾だったとか
書いてたけど

なんつーか、ホントにそうかもしれないと
妄想してしまった

というのも長秀の正室(信長の兄の娘)が
結婚した永禄6年は信長がようやく尾張を
統一したかしないかぐらいで美濃攻略に
着手した頃だった。まだまだ政略結婚が必要
な時期だろうと思う。信長の娘はまだ小さい
あるいは生まれていないので妹か姪を
使うのが普通だろう

にもかかわらず丹羽なんぞにくれてやった
わけで他家へ嫁にやると下手すりゃ一生会えない

こののち信長は佐和山へ足しげく通ってることからも類推できる?



ま、いずれにせよ妄想の域をでないけどw

373 :日本@名無史さん:03/11/05 21:29
>>372
なるほど。
>>338の指摘は、や○いネタかと思っていたが、
近親ソーカン&不倫ネタだったわけね。

言われてみると、長秀だけではなく、勝家も一益も光秀も、
そろいもそろって親子の年齢が離れているのは不思議だな。

信長は部下を単身赴任させて、その女房に手をつけていたとか?
本能寺の変の原因として、落穂雑談一言集という古書に、
信長が光秀の妻を襲って未遂に終わったという説がある。
有名な秀吉の妻に送った信長らしからぬ優しい手紙も、怪しいといえば怪しい。

374 :日本@名無史さん:03/11/05 22:59
信長って、妹や叔母がトラウマになってか、身内、特に娘は家来など人質じゃないようなところに嫁がせていると思うが・・・

375 :日本@名無史さん:03/11/05 23:45
>>374
姪を養女にして武田勝頼や畠山昭高に嫁がせたりしているね。
北条との縁談もあったようだけど、本能寺の変で実現しなかったようだ。
それを除けば信長の娘の嫁ぎ先は、もともとの家臣でない外様大名か公卿が多い。
徳川、筒井、蒲生、中川、水野、万里小路、徳大寺など。
一種の政略結婚といえなくもない。
譜代大名に嫁がせたのは丹羽と前田、あと秀吉側室くらいか。

376 :日本@名無史さん:03/11/06 00:37
>>375
そのへんは信長の勢力が拡大・安定した以後のことでしょ
その時期に丹羽に嫁がせたのなら何も疑問はないんだが

長秀室が丹羽に行った時期は信長が尾張の一大名に過ぎない時で
375さんが書いている通り、徳川との同盟に実の娘をだしたのと
浅井には妹を武田には美濃遠山氏の娘(信長の姪)を養女にして贈ったくらいかな

武田に養女を渡したことから信長には他勢力に対する手駒(女)が少なかったんじゃないのかなと
同時に他勢力との同盟・従属交渉に対するニーズもあったんではないかと
にもかかわらず到底裏切りそうもない長秀にわざわざ与えたというのが気になるんすよ

それと長重の幼名が鍋(割とポピュラーな名前だけど)だしw


あと佐和山に頻繁に通う信長が何故か近くの宿場に泊まって佐和山を素通りした事があるんだが
それが長秀室の父・信広が長島で戦死後2度目の佐和山通過(たしか上洛)時なんだな
信広の戦死は長島方が開城したところへ卑怯にも攻撃した挙句逆襲くらったので
これは信長の責任と言える
そのことを1回目の訪問でなじられたかシカトされたかで気まずくなったんでは・・・なんて思ったり







377 :日本@名無史さん:03/11/06 00:53
>375
信長存命中に絞れよ、秀吉の妾は除外(殿の娘を妾に というのは萌えだけど)


378 :日本@名無史さん:03/11/06 01:25
375だけど、
一応最後の行で、丹羽を前田の前に持ってきたのは、
長秀室が信長の姪で養女だったことが念頭にあった。
長重の方は信長死後の結婚であることが確実だからね。
嫁ぎ時期が不明である秀吉側室・万里小路・徳大寺はおまけ。
ちょっと余計だったかな?

379 :日本@名無史さん:03/11/06 03:11
>>376
>にもかかわらず到底裏切りそうもない長秀にわざわざ与えたというのが気になるんすよ
だからこそ、より一層絆を深めるためという考えもある。
人を信用しない信長だからこそ、「万千代(五郎左)だけは・・」ってのも
あったかもしれない。

それに、この婚姻における信長の存在を重く見すぎて、父親である信広のことを
忘れてませんか?
信広が長秀に嫁がせる約束をしていた場合、一門の娘を有力家臣に与える際は
ハクをつけるため、一旦主君の養女にしてから送り出すなんて、別に珍しいことじゃない。


380 :日本@名無史さん:03/11/06 17:37
>>379
すんません信広の事は
わざと無視してましたw

信広ってよくわからん人ですよね


381 :日本@名無史さん:03/11/07 23:48
>嫁ぎ時期が不明である秀吉側室
バカかよ、家来の妾に娘を差し出す香具師はおらんだろ。いたとしてもAVの世界だけ

382 :日本@名無史さん:03/11/08 00:48
>>381
信長の生前に手をつけた可能性は低いとは思うが、1点だけ。

側室は妾ではない。

側室も正式な妻だから、当然、祝言なども挙げる。
昔の日本は、身分の高い人限定で一夫多妻制だったのよ。

383 :日本@名無史さん:03/11/08 05:43
>>380
織田信広って、時に信長にそむきつつも、一門衆の中では結構活躍してたんだよね。
政治・戦闘どちらもそこそこできる人材だったようだ。
長島のハプニングがなく生きていれば、信長の死後の勢力争いでも、それなりの
存在感を示しただろうなあ。



384 :日本@名無史さん:03/11/09 13:01
織田信広って具体的にはどういう実績があるのかな
手元には信長公記しかないから弘治年間に
斎藤義龍と組んで信長に謀叛した話しかしらないや
あの話、起きた時の逸話は詳しいのに
どう収束したのか全然書いてないよな
長島合戦の時も参戦したことしか書いて無いし

公家の日記に結構出てくるらしいが
そういや足利義昭との和睦の際、信長の名代として
交渉したとか・・・でもソースがなんなのかわかんねぇ


385 :日本@名無史さん:03/11/09 15:36
>>384
オイオイ、マジかよ。
「足利義昭との和睦の際、信長の名代として交渉」って
信長公記に書いてあるぞ。もう一度よく見てみ。


386 :日本@名無史さん:03/11/09 20:29
>>385
あれ?書いてたっけ?

387 :386:03/11/09 20:47
>>385
ほんとだおもいっきり書いてある
_| ̄|○


388 :日本@名無史さん:03/11/09 21:25
織田信広。三郎五郎、大隈守。
 信長より早く表舞台に立ち、若くして対今川最前線の安祥城主を勤めている。賢愚を見極める
 目のあった信秀が、信広をそこまで評価していたことからも、信広の力量は平凡なものでは
 なかったと推測される。
 今川の軍師・太原崇孚相手に、天文18(1549)3月から8ヶ月に渡って戦い抜き、
 11月9日に落城するも松平竹千代との捕虜交換で帰還した[松平記]。
 弘治2年(1556)に、美濃の斉藤義龍に通じ清洲城を乗っ取ろうとしたことがあったが、
 それ以後は二心なく信長に仕えた[公記]。
 信長入京後の永禄12(1569)から元亀元(1570)は、信長の兄であるため、公家や
 幕府からの信用も大きく、京都に常駐して主に幕府相手の外交を担当する[言継]。また吉田
 社祠官吉田兼和などとも親しく交際した[兼見]。
 軍事面でも活躍し、比叡山攻囲では勝軍城を任され、以降は東美濃を担当して、元亀3には
 岩村城を守って武田軍を撃破した[歴代古案]。
もっとも顕著な事跡としては、天正元に信長と足利義昭の最初の衝突の際、信長の名代として
 義昭と和議を結んだことであろう[公記、兼見]。
 天正2年9月29日、伊勢長島の戦いで信長の違約に怒った一揆勢の本陣切り込みを受け、
 織田信次(信長叔父)、織田秀成(信秀8or9男)、織田信成(信光長男)、織田仙(信光3男)、
 織田信直(信長の娘婿)、織田久三郎(信長連枝)などの一門衆とともに討ち死にした。
 信広が生存しておれば、その地位・実力からも、本能寺以降の勢力争いにおいて大きな役割を
 果たしたのではないかと考えられ、近江宇佐山城で朝倉・浅井軍に攻撃され森可成とともに
 討ち死にした織田信治、長島一揆勢に攻められ尾張小木江城で戦死した織田信興、丹羽長秀に
 殺された織田信澄ら、本能寺前後に死亡した信長連枝の中でも、最もその死が惜しまれる人物である。

389 :日本@名無史さん:03/11/09 21:37
信長と信広はお互いのこと何て呼び合っていたんだろうか?
信長→信広 兄上?
信広→信長 上様?

390 :日本@名無史さん:03/11/09 21:57
>>389
場所にもよるだろうが・・・
信長→信広 兄上か兄者
信広→信長 殿か惣領か信長か三郎か
あるいは名前を呼ばないか

信長の暴走を食い止める事はできたかもね

あと何歳くらい年上なのか・・・
推定は可能だが

391 :日本@名無史さん:03/11/09 22:33
>>390
幼少時ならともかく、主従関係はっきりしてからそんな呼び方はしないでしょう。


392 :日本@名無史さん:03/11/10 14:28
信広は殿とか上様と呼び
信長は通称で呼んでた
主従だし。
母親違うから昔だと兄弟ってより一族の年長者ってだけじゃない?

393 :校長が強盗:03/11/10 14:44
この事件は報道されていません。教育委員会も校長を処分しません。
 皆様の力でこの事件を広めてください。
被害者先生のサイト
 http://www.geocities.co.jp/NeverLand/8595/
 事件究明を求める署名サイト
 http://chiba_273.at.infoseek.co.jp/
   ∧_∧
  (  ^^ )< ひろめよう


394 :日本@名無史さん:03/11/10 21:59
時に、弟者よ。俺の呼び方考えてみてくれ。
       ∧_∧
  ∧__∧ (´<_` ) 兄者って、俺の臣下だから三郎五郎って呼び捨てでいいよな。
  ( ´_ゝ`)/  ⌒i
_(__つ/ ̄ ̄ ̄/i |_
  \/___/ ヽ⊃



395 :日本@名無史さん:03/11/10 22:03
     \\\
   (⌒\  ∧_∧
    \ ヽヽ( ´_ゝ`) このウツケ。とりあえず、ぬっコロス。
     (mJ     ⌒\
      ノ ∩広 / /
     (  | .|∧_∧OKOK。
  /\丿 | (    ) 兄者待ちなされ!
 (___へ_ノ ゝ__ノ


396 :日本@名無史さん:03/11/10 22:07
ほかにマシな呼び方はないのかよ。
       ∧_∧
  ∧__∧ (´<_`;) 大隈守って自称したらどーよ?ついでだが滝川一益ってカズマスが正しいって知ってた?
  ( ´_ゝ`)/  ⌒i
_(__つ/ ̄ ̄ ̄/i |_
  \/___/ ヽ⊃



397 :日本@名無史さん:03/11/10 22:08
知らなかった!
ヘェー         ∧_∧
 ヘェー  ∧_∧  (´<_`  ) (本当はヒトエキだけどな。プッ)
ヘェー  ( ´_ゝ`) /   ⌒\
 ヘェー ∩   \     |   /  ヘェー
    / /ミ  / ̄ ̄ ̄ ̄/(u ⊃   ヘェー
  __(__ニつ/    /_ | | |_ヘェー
      \/____/  (u ⊃   ヘェー




398 :日本@名無史さん:03/11/10 22:25
ヒトエキかよ!

399 :日本@名無史さん:03/11/10 22:42
      ∠ ̄\∩
        |/゚U゚|丿 上様、お戯れを。拙者イチマスでござる
      〜(`二⊃
       ( ヽ/
        ノ>ノ
       UU


400 :日本@名無史さん:03/11/10 22:54
>396
「おおくまのかみ」かよ!

401 :日本@名無史さん:03/11/11 00:13

   ∧_∧           ∧_∧           /■\           ∧_∧
  ( ´∀`)          ( ・∀・)          (´∀` )          ( ^^  )
  (    )           (    )           (    )           (    )
  | | |               | | |               | | |               | | |
  (__)_)            (__)_)            (_(__)            (_(__)

  【ながひで】         【かついえ】         【ひでよし】         【あけち】


402 :日本@名無史さん:03/11/11 01:04
三郎五郎って三郎か五郎か
はっきりしやがれこん畜生

略して三五とか言われてたのかな

大隅守も最後まで自称だったのかな

公家と親交があったのなら
わりと文化人系だったのかな

話が逸れるが秀忠と長重はマタ従兄弟かいな

403 :402:03/11/11 01:05

秀忠じゃねーや家光だ

404 :日本@名無史さん:03/11/11 16:04
丹羽家の庭には2羽鶏がニワ

405 :日本@名無史さん:03/11/11 16:16
丹波長秀
http://www.google.com/search?hl=en&ie=UTF-8&oe=UTF-8&q=%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E9%95%B7%E7%A7%80&btnG=Google+Search

406 :日本@名無史さん:03/11/12 22:43
>>402
ふつうに「三郎五郎殿」と呼ばれていたんじゃないかな。
大隅守については、

http://village.infoweb.ne.jp/~isamun/monarchs/people/japan/oda01.html

信広は従五位下に叙位されているので、正式に任官している可能性が高い。

407 :日本@名無史さん:03/11/13 02:35
織田信広が生きていれば、勝家+信孝、秀吉+信雄に続く長秀+信広の
第3極ができていた

408 :日本@名無史さん :03/11/13 03:07
あのー「五郎左衛門」の後についてる「尉」みたいなのは官位?

409 :日本@名無史さん:03/11/13 03:15
>408
そう。
もう少し詳しく言うと、その名残。

410 :日本@名無史さん:03/11/13 03:24
遠山の金さんが、お白洲に出てくるとき、「遠山左衛門尉様、ごしゅつだ〜い」
って声がかかる左衛門尉と同じ朝廷の官位。
古くは中国の宮廷の門を守る警備隊長に由来する。
左衛門尉は、大尉ならば正七位下、小尉ならば従七位上。
正式な官位じゃなくて、通称だけどね。


411 :日本@名無史さん:03/11/13 03:27
>410
遠山の金さんは一応正式な官位だけど

それに「ごしゅつだい」じゃねーだろ

412 :日本@名無史さん:03/11/13 03:31
うむ、「遠山左衛門尉様、御出座〜」の間違いだな。


413 :日本@名無史さん:03/11/13 09:50
>>410
アリガd

だとすると大岡忠相って官位高かったんですね>越前守

414 :日本@名無史さん:03/11/13 10:11
>>413
擦違
初心者スレ逝け

415 :日本@名無史さん:03/11/15 00:26
長秀も晩年は越前守
長生きしたら大納言もあったろうな


416 :日本@名無史さん:03/11/15 00:54
「ただの五郎ザエモンで結構」を貫き通してほしかったような気もするが。

417 :日本@名無史さん:03/11/15 01:32
秀吉の政権は史上まれな強圧。
支配体制に組み込むために大納言なり、適当な官位にまつりあげ。
うむを言わさず織田家の時代が終わったことを知らしめただろう。

そのような政権だったからこそ長秀が憤死・割腹という説が出たのではないか。
戦国生き残りの男の意地と重厚さを増す豊臣政権との対比で。

418 :日本@名無史さん:03/11/15 10:59
長秀の晩年、秀吉は内大臣となり朝廷の権威を振りかざし始めたが、
長秀としては秀吉の下風に立つのをいさぎよしとせず、
上洛して臣従の礼をとることはなかったらしい(今谷明「武家と天皇」)。
「丹羽歴代年譜」によると、秀吉は怒って次のように言ったという。

今、我、天下に覇たり。禁裏を守護し、勅許を受けて兵権を掌る処、
長秀、約に背き、今に上洛せず。何ぞ来りて輔けざらん哉。

秀吉としては家康だけでなく、長秀も上洛しないので、
かなりイラついていたんだろうな。
長秀が長生きしたら、秀吉としては家康と同様に、
相当に気を遣わなければならない存在になったものと思われる。

419 :日本@名無史さん:03/11/15 19:41
長生きしていたら、官位は

秀吉 
家康 
長秀 
秀長 
利家 

の順かな?

420 :日本@名無史さん:03/11/15 20:34
秀長がそんな下位に来ることはあるまい

421 :日本@名無史さん:03/11/16 02:54
>>420
下位?
史実も秀吉>家康>秀長>利家だろ
 

422 :日本@名無史さん:03/11/16 11:14
>>421
家康=秀長だな。
中納言になったのも一緒だし、大納言になったのも一緒。

423 :日本@名無史さん:03/11/16 13:02
>419
長生きしたら攻め殺されていたに1000香港ドル

424 :日本@名無史さん:03/11/16 14:08
長生きしていれば五大老入り。
もし秀吉より長生きしていれば、どうなったのかなあ


425 :日本@名無史さん:03/11/17 05:46

時に、弟者信長殿よ。名古屋人はなんだってミソカツだのソースカツだの濃い味が好きなんだ?
       ∧_∧
  ∧__∧ (´<_` ) 兄者よ。俺と三好長慶の料理人のエピソードで分かるだろ?田舎者だからさ。
  ( ´_ゝ`)/  ⌒i
_(__つ/ ̄ ̄ ̄/i |_
  \/___/ ヽ⊃



426 :日本@名無史さん:03/11/17 06:14
↑へたくそ。

427 :日本@名無史さん:03/11/17 08:28
>>414
不能者は欠陥品だから結婚できない
お気の毒さま

428 :日本@名無史さん:03/11/19 23:42
>>500
( ・∀・)つ〃∩ ヘェーヘェーヘェー

429 :日本@名無史さん:03/11/20 07:03
>>428
誤爆?

430 :日本@名無史さん:03/11/20 08:34
>>429
予知能力者だよ。
>>500にすばらしいトリビアを期待

431 :日本@名無史さん:03/11/20 13:35
>>430
500まで続くのかという問題は残る

432 :日本@名無史さん:03/11/20 13:39
PHPの豊臣秀長を読んだんだが
丹羽長秀が人がいいだけの
能無しの馬鹿として描かれていた

ひどいよ・゜・(ノД`)・゜・

433 :日本@名無史さん:03/11/20 23:16
長束正家・上田宗箇らは長秀死後、秀吉に引き抜かれたわけだが
秀吉は何でよその家臣が使える連中だと知っていたのだろう?

もしかして秀吉は丹羽の家臣だった時期があったのでは
ないだろうか

434 :日本@名無史さん:03/11/21 08:26
>>433
秀吉は下僕からなりあがってきたのだから、信長に直属して独立して動く
侍大将になるまでは、当然、柴田、丹羽、佐久間、林らの下にいた。
織田家旧臣のほとんどが元同僚・上司なのは当然。
そもそも「羽柴」の名字の意味を考えれば分かるだろ?
秀吉軍団の下にも福島正則らの子飼いを除けば、かつては秀吉と同格や
秀吉より上だった部将はいくらでもいる。
秀吉の立身出世が、いかに急激かつ異例だったのかの証拠だな。


435 :日本@名無史さん:03/11/22 00:45
「羽柴」の意味を少し考えてみた。
丹羽なんかの名前を前にされた柴田も気を悪くしただろうな。

436 :日本@名無史さん:03/11/23 00:14
どうも「羽柴」の名前の由来って嘘臭いんだよなぁ
丹羽と柴田から一字ずつって・・・
ガキの冗談じゃないんだからさ

こういう名前のつけかたってあんまり聞かないよな


437 :日本@名無史さん:03/11/23 00:41
羽柴ってもともと実在する名字だしね

438 :日本@名無史さん:03/11/23 05:46
羽柴姓が丹羽と柴田から1字ずつとったというのは、
竹中重治の子・重門の書いた秀吉の伝記「豊鑑」に書いてあります。
また、山形軍記に「寒河江の領主羽柴勘十郎」という武将が最上義光と戦っている記述があります。
姓氏家系大辞典によると、この出羽の羽柴氏は秀吉とは無関係なようです。

439 :日本@名無史さん :03/11/23 09:18
長重は1614年に大坂冬の陣が起こると、鴫野の戦いで上杉景勝らと共に奮戦、
夏の陣でも若江の戦いで豊臣方の木村重成軍の左翼・木村宗明隊を撃破する活躍を
しているそうな

440 :日本@名無史さん:03/11/23 19:50
長重は徳川秀忠とつながることで上手く大名フカーツできたんだっけ
立花宗茂と似ているのかな

441 :丹羽家の末裔:03/11/24 01:26
丹羽家、こんなに奥が深いとは思わなかったよ。








つうか、俺の苗字だ。

442 :日本@名無史さん:03/11/24 01:54
>>441
丹羽多聞アンドリウさんでつかw

そうそ、作家の丹羽文夫氏って末裔ですかね。
今ではすっかりぼけてしまわれて、
介護されていたお嬢さんの方が先に亡くなられると言う始末。。。

443 :日本@名無史さん :03/11/24 07:45
>>441
まさか伊藤忠の社長さんとか?w

444 :日本@名無史さん:03/11/25 01:56
長秀の弟は夏の陣で死亡

445 :日本@名無史さん:03/11/25 02:41
それは分家?本家の家老クラス?
まじめに参戦したんだね(W

丹羽必死だな。

446 :日本@名無史さん:03/11/25 22:10
丹羽長重の弟は、豊臣秀頼に仕えていたが、大阪の陣の直前に逃亡した。

http://tikugo.cool.ne.jp/osaka/busho/niwa/b-niwa-masa.html


447 :日本@名無史さん:03/11/25 22:35
自衛隊員に首を刺されて死んだ代議士の丹羽さんは子孫?

448 :日本@名無史さん:03/11/25 23:06
丹羽秀重な。
長重の家臣として大坂方と戦って討死したんだよ。
446の逃げたやつとは別人。

449 :日本@名無史さん:03/11/25 23:41
検索してもひっかからない・・・
もうちょっと詳しい経歴教えてくれませんか

450 :日本@名無史さん :03/11/26 01:54
>>447
確か直系の人は松下電器の東京支店長かなにかをやっているとか何処かのサイトで見た様な

451 :日本@名無史さん:03/11/29 09:21
結城水野に養子にいった丹羽勝知が最強

452 :日本@名無史さん:03/11/29 23:00
>>449
丹羽九兵衛尉秀重
丹羽長政の三男(長秀は次男)
長秀に仕え長じて長重を補佐した
所領は5000石
関が原の際、長重に忠諌するも用いられず

のち長重が常陸古渡に所領を得ると
500石与えられた
冬の陣で負傷し夏の陣で平野口で討ち死に
享年70歳

出典は・・・・メモるの忘れてた(w

453 :日本@名無史さん:03/11/29 23:10
青木一重のスレはここでいいですか

454 :日本@名無史さん:03/11/30 02:28
信長と長秀は生き残って年を取ったら
家康と正信の様なあいだがらになったのかなあ


455 :日本@名無史さん:03/11/30 15:02
>>447
それ微妙に違う
自衛隊内で精神病患者に刺されてさらに搬送された病院で血液型間違えられ
て輸血されてお亡くなりになった丹羽元労働大臣
ってことだろ?

一応地盤は愛知県春日井市だがどの丹羽さんだろうね

456 :日本@名無史さん:03/11/30 16:43
>>454
ならないだろ。
正信は謀臣として最後の最後まで必要とされていたから、ああいう間柄になった。
むしろ才能のわりに大領の持ち主ってことで、佐久間や林のように追放だな。
とくに信長は、後年は森や猪子などの側近・茶坊主の類にいいように操られ、
秀吉もそれらの妬みを受けて信長に讒言されるのをひどく恐れ、「自分の領地を
近習の方々に差し上げ、自分は中国で領地をいただく」と媚びを売ったり、
贈り物をしたりしていた。
明智光秀が信長に嫌われた一因も、秀吉のようにこれら側近の機嫌をとらなかったので
讒言されたためと言われている。
長秀も側近の機嫌をとるタイプではないので、消されるのは間違いなし。


457 :454:03/11/30 18:43
>456
さんくす そんなに側近政治になってたとは知りませんでした。
あのままいったら 信忠は扶蘇のようになったのかもしれませね。

458 :日本@名無史さん:03/11/30 19:43
>456
一応、長重は外孫だから・・・身内好きの信長としては追放はないだろう。

459 :日本@名無史さん:03/12/01 00:20
>>358
長重は信長の初孫・・・になるのかな?(形式上)


460 :日本@名無史さん:03/12/02 01:43
>>456
信長公記における信長家臣の登場回数を数えてみると、こうなる。

1 丹羽(惟住)長秀 87回  2 羽柴(木下)秀吉 70回
3 明智(惟任)光秀 64回  4 滝川一益 56回
5 佐久間信盛 50回  6 柴田勝家 44回  7 蜂屋頼隆 33回
8 堀秀政 30回  9 荒木村重 29回  10 稲葉一鉄 27回

信長が長秀をいかに重用していたか、客観的データが証明している。
「才能のわりに大領の持ち主」というよりは、
むしろ「重要武将の割には領地が小さかった」と言うべきでは?

461 :日本@名無史さん:03/12/02 08:44
>>460
地方出張して方面軍司令官として大敵と戦っておらず、信長の近くにいて留守役や
京畿の政治に関わっていたから「事跡」が沢山あるだけのことでしょ。


462 :日本@名無史さん:03/12/02 09:49
二本松っていえば、仙台藩の大名行列が二本松城下を通る時は
火縄に火をつけて、時には城を狙って通ったそうだね。
伊達政宗の親父さんが当時の二本松城主に拉致られて殺された
からって話だけど、無関係の丹羽さんには迷惑な話だよね。

463 :日本@名無史さん:03/12/02 10:19
>>461
言い換えると恐れるほどの軍才は無く、しかし信用できる内治の才の持ち主
という事でしょ。
統一が進んだ後に必要とされる才だし、重要な武将になっていた可能性は
充分にあると思うけどなあ。

464 :日本@名無史さん:03/12/02 18:55
>463
「米の五郎左」といわれるぐらいだもんね。

465 :日本@名無史さん:03/12/05 00:15
反面、信長の指示で処刑や暗殺もやってる

ほんといいように使われてるな

466 :日本@名無史さん:03/12/05 10:59
信長への無用な忠誠心がなく、長生きしていれば、豊臣政権における前田利家のような
位置についただろうねえ。



467 :日本@名無史さん:03/12/09 13:21
丹羽光重の兄二人の死因あるいは死んだ年
を誰か知りませんか

468 :日本@名無史さん:03/12/10 23:33
丹羽光重の兄二人は共に早世し、その結果7歳で光重が嫡子に決定した。

469 :日本@名無史さん :03/12/13 20:01
地名・姓氏研究家 丹羽基二

470 :日本@名無史さん:03/12/13 20:03
丹羽家について研究した学術系の専門書ってないんですか?

471 :日本@名無史さん :03/12/13 20:45
二本松藩丹羽家入府360年記念事業を実施します!
2003年(平成15年)は、1643年(寛永20年)8月2日に丹羽光重公が
白河より移封され、二本松藩主として入府してから360年目の節目となる記念す
べき年にあたります。
http://www.city.nihonmatsu.fukushima.jp/niwake360.htm


472 :日本@名無史さん :03/12/13 22:11
>>446
丹羽 長昌 1576(天正4)〜1630(寛永7)

従五位下備中守。丹羽長秀の子で長重の弟。父、兄とともに秀吉に属し、1585年、
兄とは別に越前国内で500石を与えられ、1587年、同国藤枝城主となり5万石に加増された。
1594年、同国東郷槙山の領主であった長谷川秀一が朝鮮で陣没し除封されると、長昌は
藤枝から東郷に移封となった。
秀吉から羽柴の姓を授けられた長昌は1600年、関ヶ原の戦いが起こると大谷吉継に応じて
西軍に与したため、戦後所領を没収された。
のち大坂の豊臣秀頼に仕え600石を知行したが、大坂の陣直前に城を離脱し、戦闘には参加せず、
越前福井に住んで生涯を終えた。子孫は陸奥二本松藩の上級藩士として存続。

473 :日本@名無史さん:03/12/14 04:54
藤堂高虎の養子になった奴ってこの長昌の弟?

474 :日本@名無史さん:03/12/15 00:59
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/niwa_k.html

そうみたい。

475 :日本@名無史さん:03/12/15 21:01
丹羽家の家紋って×だろ

どういうセンスしてるんだろね

476 :日本@名無史さん:03/12/15 21:10
スコットランドの旗って×だろ

どういうセンスしてるんだろね

477 :日本@名無史さん:03/12/15 21:11
ジャマイカの旗って×だろ

どういうセンスしてるんだろね

478 :日本@名無史さん:03/12/15 21:15
旗じゃなくて家紋の話しなんだが
スコットランド王家の家紋だって
なんかの植物をかたどってるだろ

479 :日本@名無史さん:03/12/15 22:44
 丹羽って、丹波の別の当て字じゃなっかったの?  

480 :日本@名無史さん:03/12/16 00:03
>>475
おまえの家紋は?


481 :日本@名無史さん:03/12/16 00:10
>>480
菊門

482 :日本@名無史さん:03/12/17 13:06
>>481
勝手に答えるなよ
>>480
三つ葉柏です

483 :日本@名無史さん:03/12/17 14:50
肛門印

484 :日本@名無史さん:03/12/17 15:05
>>475の家紋は肛門かよw
肛門さまだねw


485 :日本@名無史さん :03/12/19 12:30
>>479
地名だす

児玉党が愛知県丹羽群に移り住んでから改名というのが通説

486 :日本@名無史さん:03/12/19 21:26
丹羽を「たんば」と読む人
異常に多いよな

どうして「にわ」って読めないんだろう

丹生も読めないんだろうな、きっと

487 :日本@名無史さん:03/12/19 21:40
>>486
たんなま

488 :日本@名無史さん:03/12/19 23:09
>486
複数の読み方がある難読語を出すなよ。

489 :日本@名無史さん:03/12/20 01:55
丹羽で「たんば」という人もいますが?

490 :日本@名無史さん:03/12/20 10:17
>>489
いねーよ。
読み方間違ってるだけ。


491 :日本@名無史さん:03/12/20 13:09
>>490
バカで無知な厨房は勉強しよう。

現実に「いる」んだよw

492 :日本@名無史さん:03/12/20 21:07
>>490
いたとしてもすごくマイナーだよな

ま、それはいいとして
歴史雑誌とかで丹波長秀って書くのは
やめてほしいよ

丹波長秀
http://www.google.com/search?num=50&hl=ja&ie=Shift_JIS&q=%92O%94g%92%B7%8FG&btnG=Google+%8C%9F%8D%F5&lr=lang_ja

493 :日本@名無史さん:03/12/20 21:15
>>487
「うに」じゃないか?w

494 :日本@名無史さん:03/12/21 00:36
「丹羽」と書いて「たんば」と読む苗字もあるみたいだね。

http://www.bestsystem.com/japanese/read/name.html

495 :日本@名無史さん:03/12/21 16:11
佐和山城は丹羽が使える城にしたんだろ
三成なんかに城割ができるかよ

二本松も丹羽だろ
蒲生なんかかんけいなねぇや

496 :日本@名無史さん:03/12/21 16:16
丹羽と書いて「にう」という苗字の人がいるぞ。


497 :日本@名無史さん:03/12/23 03:29
>>428
そろそろ500だな
期待してるぜ

498 :日本@名無史さん :03/12/27 05:11
長重が大阪の陣に動員したのは兵200(上杉・佐竹と供に奮戦)
当時は一万石だからこれでも総動員かな??

499 :日本@名無史さん:03/12/27 14:18
>>498
むしろ多すぎるぐらいだね。
関が原で西軍について許された大名は、本来の割り当て以上に兵を
出すことで徳川への忠誠をアピールしたんだろうな。

500 :日本@名無史さん:03/12/27 14:24

祝 ! 長 秀 で 5 0 0 ! !


   ∧_∧           ∧_∧           /■\           ∧_∧
  ( ´∀`)          ( ・∀・)          (´∀` )          ( ^^  )
  (    )           (    )           (    )           (    )
  | | |               | | |               | | |               | | |
  (__)_)            (__)_)            (_(__)            (_(__)

  【ながひで】         【かついえ】         【ひでよし】         【あけち】



501 :日本@名無史さん:03/12/27 20:09
>>500
_| ̄|○

502 :日本@名無史さん:03/12/27 22:27
今夜の太閤記に丹羽長秀がまだ出てきませんが
清洲会議で突然出てきて終了の悪寒

503 :日本@名無史さん:04/01/07 23:16
>>500
一般に「織田信長の四天王」と呼ばれているのは、
柴田勝家・滝川一益・丹羽長秀・明智光秀。
佐久間信盛と羽柴秀吉は入っていない。

長秀は四天王に数えられるほどの優れた武将なのに、
他の連中に比べて地位も高くなく領地も小さかったのは、
不思議といえば不思議だな。
長秀が織田家の宿老ナンバー2になり大大名になったのは信長の死後のことだ。

504 :日本@名無史さん:04/01/08 01:26
信長の四天王なんて俗説にすぎず、根拠はない。

505 :日本@名無史さん:04/01/20 09:48
hoshu

506 :日本@名無史さん:04/01/21 13:15
このスレもうだめぽ
┐(´ー`)┌

507 :日本@名無史さん:04/01/21 13:25
丹羽長秀って前田利家と一緒で単なる裏切り者でしょ。


508 :日本@名無史さん:04/01/22 13:38
>>507
ガ━━ΣΣ(゚Д゚;)━━ン
くそ前田と一緒くたにされるとは・・・

丹羽が誰を裏切ったってんだ

509 :日本@名無史さん:04/01/22 14:03
前田は裏切り一族。
織田家を裏切り、豊臣家を裏切り、徳川家を裏切った

510 :日本@名無史さん:04/01/26 22:25
>509
けつだいらまん


511 :日本@名無史さん:04/01/27 06:24
前田は柴田も裏切ってるな。

512 :日本@名無史さん:04/01/29 00:33
皆の者!
丹羽の家臣について思う存分語るのじゃ!











・・・(゚Д゚)y─┛〜〜 人いないのに
こんな書き込みして正直むなしいぜ

513 :日本@名無史さん:04/01/29 01:30
裏切りというより勝ち組についただけだろ
んなこと言ったら戦国武将はほとんど全員裏切り者だ

514 :日本@名無史さん:04/01/29 01:53
江口正吉

515 :日本@名無史さん:04/01/29 01:54
江口正吉あげ

516 :日本@名無史さん:04/01/29 01:55
このスレは江口正吉スレになりますた

517 :日本@名無史さん:04/01/29 01:55
江口正吉萌え

518 :日本@名無史さん:04/01/29 01:57
丹羽家中随一の名将、江口正吉

519 :日本@名無史さん:04/01/29 02:00
息子は片倉重長も一目置いたという江口正信

520 :日本@名無史さん:04/02/01 02:26
江口正吉って何者なんだよ


521 :日本@名無史さん:04/02/01 03:28
毎日の自作自演ごくろうさん

でもおまえ恥ずかしい奴だな

522 :日本@名無史さん:04/02/01 19:02
>>521
俺だけじゃないぞ
俺はスレ立てた手前
必要以上に書き込んでるけどさ

俺が書き込んだのは

>>1,2(自作自演),9,16,19,21,25,35,37,42,49,51,67,68,70,83
,91,92,94,95,107(自作自演に失敗w),108,115,131,140,208
,210,219,232,247,261,272,275,296,312,314,315,327,334,338
,345348,350,351,352,358,361,363,365,372,376,380,384,386
,387,390,402,403,415,428,431,432,433,436,444,452,453459
,465,467,475,478,482,486,492,495,497(自作自演)、501
,502,508,512,520

だけだ・・・ちょっと書き込みすぎか

523 :日本@名無史さん:04/02/01 23:54
>>522
ふむ・・・。途中参加だが、2番はオレかな?

102,116,121,125,132,136,143,150,164,165,
172,177,192,207,211,225,226,228,230,233,
238,240,243,244,248,253,256,282,286,289,
292,295,319,324,347,354,366,369,371,373,
375,378,382,385,406,418,422,429,438,446,
460,494,503

今から思い返すと、
自作自演はしていないが、マジレスしたり、
煽ったり、ネタ振りして失敗したりしてるな。

印象的だったのは茶会の作法についてのレスで、
とても勉強になった。感謝。

できるだけ史料を引用するよう心がけたが、
いろいろと制約がある中で独自説を展開することは難しかった。
その辺が反省点だな。

丹羽長秀という武将は、信長や秀吉のような時代の主役ではないが、
時代の流れを決めたキーパーソンであることは間違いない。
歴史好きにとっては面白い題材だと思うな。

524 :日本@名無史さん:04/02/02 17:12
何故にまとめに入ってますか?

525 :日本@名無史さん:04/02/02 18:09
長秀の目線で見た信長とその家臣についての読み物なり
ドラマがあったら見たいんだが。
彼らを過剰に持ち上げたりせず、客観的に見られる
いい感じのになると思うのだが。

526 :日本@名無史さん:04/02/04 01:17
今日テレビで二本松では「鬼は外」て言わずに「おにー外」って言うって言ってたよ。
殿様が丹羽だから「お丹羽外」に聞こえて失礼だからだってさ。

527 :日本@名無史さん:04/02/09 14:23
長秀って血液型はA型だろな
信長はB型かな


528 :日本@名無史さん:04/02/09 21:11
>>527
長秀の血液型はわからないけど、信長はA型らしいよ。

http://www.geocities.co.jp/NeverLand/2042/ketuekigata.html

529 :日本@名無史さん:04/02/20 02:30
武将系譜辞典って言うサイトの
長重のところの最後に
博識って書いてある
んだがこれはなんなんだろう

他に博識とかかれている人物は
一人もいないし・・・

530 :日本@名無史さん:04/02/23 17:36
「しぶとく生き残った戦国武将」とかいう本に
丹羽長重が載っていたよん。

531 :日本@名無史さん:04/02/23 22:58
九代二本松藩主丹羽長富の

長男→二本松藩主
次男→淀藩主→老中
八男→結城藩主
三女→十四代尾張藩主正室
五女→十五代尾張藩主正室

十万石の外様の分際で
えらく派手な兄弟だな

532 :日本@名無史さん:04/02/23 23:02
庭師の子孫
http://ex3.2ch.net/test/read.cgi/stock/1070623603/

533 :日本@名無史さん:04/02/24 19:55
>>531
おもしろい!
石高はアレだけど信長以来の・・ってとこで面目躍如か。

534 :日本@名無史さん:04/02/26 22:21
丹羽長秀と信長のやり取りはなかなか面白い逸話がたくさん残ってるよな。


535 :日本@名無史さん:04/02/28 00:15
>>534
例えばどんな?

536 :日本@名無史さん:04/02/29 14:06
城が落ちたと早合点して勝手に自害した
ばかな白虎隊が有名になって
官軍と激戦をして敗れて死んだ
二本松少年隊が無視されるのは
何故なのでしょう

537 :日本@名無史さん:04/02/29 14:29
>>533
支藩に嫁にやったら夫が偶然本藩を継いじゃったとか言うパターン。
尾張藩の正室は代々公家からばかりだったはず。

538 :日本@名無史さん:04/03/01 16:57
>>536
有能な宣伝屋を捕まえられなかったから。
同じように坂本龍馬は有名で中岡慎太郎はマイナー
新撰組は有名で京都見廻組はマイナー
有名にしたかったら電通に金払ってキャンペーンを張ってもらえば?

539 :日本@名無史さん:04/03/01 23:58
>538
うーん たしかにその通りですね
20年前に前田慶二を知ってる人が居なかった事を
考えると まだまだチャンス有りますね


540 :日本@名無史さん:04/03/07 23:43
血統スレで見たんだけど
丹羽長秀は今の天皇陛下の
先祖だそうだ

541 :日本@名無史さん:04/03/12 08:39
>523
トップになるタイプじゃないが必要だな、
信長は無能者は容赦なく追放する。
>540
それ本当?

542 :日本@名無史さん:04/03/12 16:39
>>541
こういうつながりだそうです
丹羽長秀ー稲葉典通室ー稲葉一通ー稲葉信通ー稲葉知通ー
稲葉恒通ー勧修寺顕道室ー勧修寺経逸ー東京極院ー仁孝天皇−
孝明天皇−明治天皇ー大正天皇ー昭和天皇ー今上天皇

543 :541:04/03/12 18:49
>542
それは凄い、だから二本松藩が薩長軍に反抗したのか。
丹羽長秀の娘が稲葉典通と結婚したってこと
ですか。

544 :日本@名無史さん:04/03/13 18:01
>>543
そです

でも薩長軍に反抗したのは丹羽家出身の老中・稲葉正邦が
いた手前かもしれんです

ちなみに上の系統は遡ると斎藤道三、蜂須賀正勝、細川忠興・・・
など多くの戦国武将がでてきます。念のため

545 :541:04/03/14 00:05
>544
譜代より凄いな、稲葉正邦って九代目の次男でしょ。

546 :日本@名無史さん:04/03/25 14:22
ぬるぽ

547 :日本@名無史さん:04/03/30 09:27
二本松age

548 :日本@名無史さん:04/04/17 03:07
丹羽基二センセも、丹羽家の末裔?

549 :日本@名無史さん:04/04/17 03:12
俺の地元丹羽さんに城建ててもらった。
完成を待たずして転封されたが。

550 :日本@名無史さん:04/04/18 18:24
たった二年で領地の96%を無くすなんて、よっぽど嫌われていたんだね。

1585年(天正13) 4月、家督を継ぐ。
越前国府中城主となる。
越前・若狭・加賀半国を領す。
7月、家臣の軍令違反により羽柴秀吉に越前・加賀を没収される。

1587年(天正15) 3月、豊臣秀吉の九州征伐に参陣。
再び家臣の軍令違反により豊臣秀吉に若狭を没収される。
加賀国松任四万石に転封。


551 :日本@名無史さん:04/04/18 18:30
しかも親は、1583年に秀吉から、あの羽柴姓を喜んで賜っている。(哀)




552 :日本@名無史さん:04/04/18 20:15
>>551
丹羽長秀が羽柴姓を使った形跡はない。
当時の書状などでは「惟住越前守」「惟越」などとある。
長秀は信長から賜った惟住姓を終生大事にしていたようだ。

息子の長重が羽柴姓だったのは確実なので、
そこから誤解されたんじゃないかな。

553 :日本@名無史さん:04/04/20 01:34
丹羽が気に入らないなら遠くに転封してくれれば
良かったのにな

前田・佐々と領地交換してたら
加賀百万石は丹羽家だったかも


554 :日本@名無史さん:04/05/03 10:37
戒石碑あげ

555 :日本@名無史さん:04/05/22 09:01
一時は120万石か

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